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2023年に読んだ20冊+観た9本

年が明け早一ヶ月経ってしまいましたが、昨年2023年に読んだ本の振り返りです。割と最近(2020年以降)に出た本が多い。半分くらいは人に勧められて読んだ物。新たなジャンルとして日本文学への興味が芽生えました。

移動時は何でもいいので、紙の本か、kindleを携帯しておくと良い。買った当初は進まないが、何かのきっかけでどんどん読み進められる本がある。本当に不思議だが本棚に入っている時は全く読む気がそそられないものの、外に持ち出して開いてみると本の方から歩み寄ってくれるものがある。

政治・経済

立花隆(1983)『日本共産党の研究(一)〜(三)』

友人に紹介されたもの。文庫本3冊セット。取材力もさることながら、読ませる力、文章力も相当なものだと思う。単に情報量が多いだけでは読者はついてこない。

コミンテルンの支配、共産党の伸長や地下活動能力などを日本と他国を比較しながら追うことで、日本における共産党が何かが浮かび上がってくる。

  • コミンテルンの活動は専制君主制が長く続いた国かカトリックの国で伸長した一方、自由主義の伝統の長いイギリス、アメリカでは取るに足らない政治勢力にしかならなかった。日本は天皇制的意識構造が染みわたっているため民主集中制の原則は受け入れられた
  • 被差別部落民と在日朝鮮人は日本社会にあって天皇制の外におかれ、差別が続いてきた。日本社会の中に天皇制と対立するもう一つの組織=共産党ができたとき、彼らが支持母体となった
  • 日本の共産党員は中国共産党のように厳しい弾圧下で機密を守ることができなかった。日本人の勝敗感はアナログではなくオール・オア・ナッシングであり、それは第二次世界大戦中に捕虜になった将校がよく軍事機密を話すことに現れていた。
  • 共産党イデオロギーが受け入れられたのは舶来コンプレックスに満ちた、限れたインテリ層だけだった。また当時の日本社会は基本的に農民社会、労働者といっても農民の出稼ぎが多く不況で仕事がなくなると農村に戻るバッファとしての労働力だった。労働者になったからといってプロレタリアートの階級意識に目覚めるわけではなかった。

  • 宗教と革命は距離が遠いようで近い。どちらも救済を約束する。前者は、救済は人間の内面の変革においてあると説くが、後者は救済は人間を取り巻く環境=社会の変革においてあると説く。救済を渇望する人は、どちらかに近づく。どちらの説を信ずるかは、その人が悪の根源を那辺に捉えているかによって決まる。一方にのめり込んで挫折した人間が、他方に走って再救済を求めることは決して珍しくない。昔から、宗教から革命に走った人間も、革命から宗教に走った人間も同じようにたくさんある。
  • 日本人一般がもともとパーソナリティのインテグレーションが弱い。ところが、共産主義者たちは、その弱さを、強烈なマルクス主義のイデオロギーのインテグレーションの強さで補っていた。(中略)あまりにマルクス主義に深くコミットしていただけに、それに代わるものの蓄積が何もない。そこで唯一最後に発見するのが自分が日本人であり、こればかりは自分の血肉そのもので、脱ぎ捨てようにも脱ぎ捨てようがないという事実の認識。ここに彼らが民族主義の深みに入っていった原因があったのではないだろうか。

外的には特攻のスパイに組織の人事や行動が把握され、内的には味方に対する猜疑心が強まり最終的にはリンチ事件に発展してしまう、こういった事情を踏まえるとかなり綱渡りな存続を繰り返してきたことがわかる。

1巻にもあった通り、逮捕されてすぐ自白する党員や、主導者が転向する話(欧米では自らの思想と組織が合わなくなることで離脱が起こり、日本の場合は自らの思想が変わった結果組織を離れる)を読むと、そもそも日本人には明確な主義・思想をもつこと(=血肉化する)自体が合わないのではないかという気がしてきた。それが共産主義をファッションだと捉えていた日和見的な活動家やかつての学生運動の中身のなさにもつながってくるのではないか。

  • スターリン治下の公開粛清裁判において、自分が潔白であるにもかかわらずソビエトの利益だと信じたが故に自らをソビエト反革命の陰謀を企てた有罪と告白し処刑されていった革命たちがもたらしたものはスターリン圧制の一層の強化でしかなかった。
  • 1933年のドイツ・ナチスの台頭を契機にヨーロッパ最強の政党ドイツ共産党が破壊され、ソ連侵略の危険性が生まれたため、コミンテルンは反ファシズムの一点でリベラルな保守とさえ提携する方向に戦術を転換した。日本共産党の「天皇制打倒」のスローガンはそのような統一を阻害するものだったため、方針転換に伴い自己批判を行わざるを得なくなった。

3巻の後半は参考資料集になっている。よくここまで調べたという執念を感じた。読み応えがあった。全体を通してコミンテルンの権威を借り、地下活動は特高に筒抜けであり、疑心暗鬼が生んだ同志討ちによって組織が崩壊していく、という描かれ方をしている。スパイと疑われながら死んでいった党員の無念が伝わる。

ほぼ同時期に共産活動が始まった中国ではなぜここまで共産党が拡大したのか、日本と比較してどのような要因が効いていたのかを知りたくなった

長沼伸一郎(2020)『現代経済学の直観的方法』

2020年4月の発売直後に購入し、6,7,8章以外を読んで放置していた。今回移動中に改めて読み直した。「第7章ドルはなぜ国際通貨に君臨したのか」、「第8章 仮想通貨とブロックチェーン」の箇所が特に面白かった。

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神
カルヴィニズムの倹約・勤勉の精神が資本主義の土台になったわけではない。あらかじめ救済されるかどうかが定められている「予定説」を提唱。正しし外面的には誰が救われるかは分からず、ビジネスこそが救われることを立証する場所だった。つまり資本主義を興した原動力は金儲けかもしれないが、金のためではなくその背後にある信仰、宗教的動機だった。

資本主義の乗り物としての共同体、国家、企業、人間
資本主義を「利己的な遺伝子のアナロジー」だと捉えると、それは国や企業や人間を転々としながら生きながらえ続ける。
だとすると短絡的ではあるが、資本主義でうまく生きることは、お金にうまく使われるように生きればいいのではないかと気づいた。例えばたくさん使う、多様に使う、使い道を固定せずに変化させる。

金(ゴールド)のアナロジーであるビットコイン
いわゆる仮想通貨というものを分類するフレームワークが素晴らしく明快だった。10年ほど前に初めてこの言葉を聞いてからなんとも腑に落ちなかったことがようやく解けた気がする。電子空間に金を作るもの、ドルや円などの通貨と互換性があるもの。グローバルな通貨か、特定のコミュニティだけで使えるものか。この基本的な整理はこれまで触れてきたweb3.0関係の資料に抜け落ちている点だと思う。

服部正也(2009)『ルワンダ中央銀行総裁日記』

ルワンダを訪れることになったので手に取った。移動中に石川直樹氏の著作と代わる代わる読んだ。

ルワンダ内戦より20年以上前の1965年。当時世界でも有数の強力な中央銀行である日本銀行から派遣された著者。組織に属さずに自分の道を切り拓く人、組織の中で期待に応え大きな成果を出す人。どちらも楽な道ではない。向き不向きの話であり、一社で勤め上げる人、極める人を軽視してはいけない。こんなに行動力のある日本人がいたのか、と驚いた。あとはルワンダに対する旧宗主国のベルギーの態度がわかる。

科学

ジューディア・パール, ダナ・マッケンジー(2022)『因果推論の科学』

職場の先輩が紹介されてて読み始めた。半年ぐらいかかった。面白い、けどちゃんと数式を追って理解できてないところが出てきてモヤモヤした。著者の「統計的因果推論」も読みたくなった。線形方程式をベースにして変数を調整することで因果的な情報を見ようとする、だけど統計的な傾向しか見えない。自分が学んできたインパクト評価の話と因果ダイアグラムがどう結びつくのか、もっと勉強しないと。

序章 「因果推論」という新しい科学

  • ゴルトン、ピアソンに端を発する近代統計学においては因果関係を表す数学的な言語を扱ってこなかった。「相関≠因果」はどの教科書を開いても載ってる。相関はわかる。結局因果関係が何なのかが書かれていない。パス解析は未発達のまま何年も放置されてきた
  • もし〜なら、という反事実的推論は経験的な観察からは証明できない。デイビット・ヒュームは因果性について①規則性(原因は結果に先立つ)、②反事実(第1の事象がなかった場合、第2の事象は存在しない)を定義していた。

第一章 因果のはしご

  • 想像上の事実である反事実は観察された事実であるデータと相性が悪い。しかし人間の知性は事実に反することを推定することができる
  • 哲学者たちは因果関係の概念を数式化するために確率の言語(不確実性を扱える言語)に飛びつき、計量経済学の分野ではグレンジャー因果性やベクトル自己相関という言葉が因果関係を表す言葉として使われている

第二章 シューアル・ライトが起こした革命

  • ゴルトンは平均より高い身長の父親から平均より低い息子が生まれる「平均への回帰」を因果関係で説明しようと試みた(できなかった)
  • 弟子のピアソンは因果関係は特殊な相関関係と考えた(相関係数が1か−1という決定論的になっている)
  • ライトはある変数の値がもう一つの変数の変動にどのくらい影響するか(パス係数)に着目
  • パス解析には分析対象に関する科学的思考が試される一方、統計学では決められた手順に従うのが良しとされた

第三章 結果から原因へ

  • ベイズは神学的な意図により、「絶対にあり得ない仮説」が「ありそうにない」「あり得る」に変わるためにはどのような条件を満たすか疑問を持った
  • Lからxの確率を推定するのはやさしいのに、逆にxからLを推定するのが難しい非対称性はLが原因となりxが結果になるという事実から生じている。
  • ベイズルールは条件付き確率という概念の定義ではなく、「〜を既知として考慮に入れた場合」という言葉を忠実に表現する経験的な命題

第四章 交絡因子を取り除く

  • 今やランダム化が標準的な考えになっているが、フィッシャー以外の統計学者にとって実験の条件(区画と肥料の組み合わせ)をランダムに変えることは不自然だった。
  • 交絡はいわば推定したいもの(因果効果)と実際に推定しているものの不一致。歴史的には比較不可能性と隠れた第三の変数を中心に交絡という概念が発展してきた
  • 手続き的な定義により、統計的検定の枠組みの中で交絡因子の特性を記述しようとしてきた

第五章 タバコは肺がんの原因か

  • タバコ会社の内部告発者による「タバコは肺がんを誘発する因子の一つ」だとする文書が発見された

第六章 パラドックスの詰め合わせ

  • 人間は共通原因定理が存在するかのように、何かが起こるたび常に因果関係で説明を加えようとする
  • 統計学者は五世代にもわたって因果関係の必要性を感じると同時に因果関係について説明する適切な言語の不足を感じていた

第七章 介入

  • シューアル・ライトがパスダイアグラムを線形方程式の文脈で扱ったのは因果効果がパス係数で表せるため。調整の式の計算が簡単になる点。
  • 研究者たちは調整済み(偏)回帰係数には調整なしの回帰係数よりも因果的な情報が含まれると考えたが、統計的な傾向を表すだけである。
  • 偏回帰係数は因果効果を表す場合も表さない場合もあり、データだけでは両者の違いを判断できない
  • 因果効果を表すパス係数はデータポイントの傾向を表す回帰係数から算出できるが、両者は全く違うもの。
  • 注意すべきは回帰を基礎にした調整が有効なのは線形モデルについてのみ。非線形の相互作用はモデル化できない

第八章 反事実

  • 人間はある可能世界が物理的に存在するか、形而上的なものかを厳密に区別せず、反事実的なコミュニケーションを行える
  • コンピュータ科学者による「表現問題」は人間はある特殊な方法によってあらゆる可能性の中で現実に近しい可能世界を思い浮かべる
  • 人間は発生確率の多いもの、人間の行動に原因を求めることが多く、自分の力でどうすることもできないことは原因と考えないことが多い
  • 線形モデルが採用されるのは便宜上の理由であり、気候モデルには物理学者、気候学者の研究成果が反映されておりはるかに信頼できる

第九章 媒介

  • 媒介変数(独立変数と目的変数の関係づけるもの)を一定に保つべきにもかかわらず調整してしまう(媒介の誤謬)が行われてきた
  • 間接効果を扱うには二重に入れ子になった反事実が必要だった
  • 線形モデルは相互作用を許容しないため間接効果の分析が容易
  • 線形モデルにおいて個々の経路の効果は足し合わせることができ、個々の経路のパス係数は掛け合わせることができる前提が非線形モデルでは誤った結果を導く
  • 直接効果、間接効果が何かを理解しようとせず、線形モデルを修正しようとしてしまった

第一〇章 ビッグデータ、AI、ビッグクエスチョン

  • 現在の機械学習は有限の標本から確率分布を推定する効率的な手段を提供しているが、確率分布から因果関係を導き出すことはできない
  • 哲学の多くは科学の進歩とともに解けたが、自由意志の問題はいまだに解けない謎(スキャンダル)として残っている
  • 哲学者の中には自由意志と決定論を対立しないとみなす、神経レベルでは決定論的なプロセスに見えるが、認知レベルでは選択の自由があると感じる
  • 仮に自由意志が幻想であるならば人間はなぜその幻想を持つのか

佐藤健太郎(2013)『炭素文明論』

元素や物質を起点として世界史を捉えられるきっかけになる。これは大学時代にジャレド・ダイアモンド(大陸の緯度と経度)、アセモグル&ロビンソン(政治制度)を読んでいた時にはあまり意識できていなかった視点だった。

第3章の芳香族の箇所は、日本人の香辛料への関心の薄さ(穀物中心かつ鮮度の高い食材が入手できたため保存食の必要がなかった)は東南アジアや中国・韓国を訪れた際の直感を裏付けるもの。意外だったのは香り(匂い)について語彙を持たないこと。香水を多用する文化ではない。清潔だったからこそ語彙が生まれなかったのか。

あと特に印象に残ったのはハーバー・ボッシュ法のハーバーがユダヤ人であったこと。この人の人生をもう少し深く知りたい。

小説

ロアルド・ダール(2000)『単独飛行』

昨年読んだ宮崎駿『出発点ー1979~1996』の中で、著者がとにかく好きな本だと紹介されていて、気になっていた。初版の発行は1986年。

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タンザニア・ダルエスサラームでのシェルの会社員生活、そしてイギリス空軍として第二次世界大戦に参戦する主人公の手記。激動する時代の中で、どこかそれを淡々と、その一瞬一瞬を切り取るような爽やかさをもって綴られた文章、なんというか生命の息遣いを感じる。

宮崎駿も書いているがサン・テグジュペリの『人間の土地』はもっと抽象的。ロアルド・ダールはあくまで普通の人と同じ視点から、たまたま遭遇した特異な環境で最善を尽くすことを過度に主観的になりすぎることなく、ドライに、爽やかに記述がなされている感じがする。だから読んでいて胃もたれする感じがない。

イギリス空軍に入隊するため、ダルエスサラームからケニアのナイロビにまで約960kmの行程に出発する際

こういう長距離のやや危険な旅をたった一人でするときは、喜びや恐怖といった感覚の一つ一つが極端に増幅されるもので、黒塗りの小型フォードで中央アフリカを北上する二日間の奇妙な旅のあいだに起きたいくつかの出来事は今も鮮明に記憶に残っている

例えば開けた登山道を一人で歩いているとき、感覚が研ぎ澄まされるのを感じたことがある。まるで自分が今世界を作っているのような、世界がたった今始まったような。このみずみずしく、美しい景色が文章から漂ってくる。

山口瞳, 開高健(2003)『やってみなはれ、みとくんなはれ』

京都長岡京にあるサントリービール工場に見学に行ったとき売店で見つけた。見学で面白かったのは敷地内に植えられたいたホップを見れたことと、麦汁に加えるホップのペレットの匂いを嗅いだこと。すっきりした苦味が効いている、あんまり添加してなくて爽やか。もしかするとクラフトビールよりもホップがちゃんと効いているのが自分は好きなのかもしれない。

この作者二人だけではなく、トリスの柳原良平もサントリーの社員だったとは知らなかった。開高健は大学時代に読もうと手に取ったもののなかなか進まずやめてしまってばかりいた。これを機にもう一度挑戦しても良いかと思った。日本にはちゃんとビール会社があるのに、4つの会社の味の違いをうまく説明できない。元々ワインを作って、ウイスキーを作って、ビールに参入した。創業者は鼻がよく、漢方薬の問屋で調合を学んだことがブレンドに活きた。ニッカの竹鶴を技師として迎えたが後に別の会社になった。日本のお酒についてちゃんと説明できるようになりたい

自伝・インタビュー

三國清三(2022)『三流シェフ』

四谷のオテル・ドゥ・ミクニが閉店すると聞き、同じタイミングで本屋でこの本を見つけた。ちょうど2年前にお店に行って、1階のバーで食前酒を飲んだ。行っておいてよかった。改めて三國シェフの経歴を知って楽しむことができた。

経歴やキャリア形成の話として様々な示唆があるのは間違いない。しかし一緒に働くスタッフには相当なストレスがかかっているのだろう。簡単に想像がつく。スポンタネ(即興)が得意とは聞こえがよいが、厨房でシェフの意図を察知し、空気を読みながら仕事をするなど本当に大変だと思う。これはどの業界に限った話ではなく、一人の天才が0からモノを作り出す工程に伴う苦しみ、不機嫌、ストレスは避けられないのかもしれない。

あとはオリジナリティについて。仕事がどんなにできるか、ではなく、その人にしか作れないものを提供できるか。この方ほど型破りではないかもしれないが、自分の目標とする先輩たちは会社員と研究者を両立し、独自の働き方を切り開いていっているように見える。裏を返せば決まったルートの上を出世するような人に憧れをもっていないということかもしれない。自分もいい加減、そこに踏み出すべきだと思う。もっと行動しなければと気づかされる

宮崎駿(2008)『折り返し点 1997〜2008』

とうとう読み終わってしまった。幼少期から言葉ではなく、映像と音楽に繰り返し触れてきたものもの裏側にある、先人へのリスペクトや、日本の歴史観、自然への畏敬、世の中への絶えざる不満、そして何より「度し難い」人間に向けたメッセージ。最新作の「君たちはどう生きるか」の原作に関する2007年のインタビューも掲載されていた。苦しんで苦しんで苦しんで何かを作り出す、ことから逃げてはいけないのだと思う。

登山道法研究会(2021)『これでいいのか登山道』

登山道の評価のフレームワークを考えることができる。日本の登山道の荒廃状況や各地での課題と取り組み、法制化に向けた動きについて、複数著者のオムニバス形式で整理されている。中でも印象に残ったのが、重信秀年氏による登山道のランキングを可能にする評価案である。登山道の評価結果が可視化されることで、登山者はコースタイムや景色だけではなく、整備されているかどうかという観点で登山を楽しむことができるようになるかもしれない。また、全国の登山道について優先的に改善が必要な箇所を特定するのにも役立つだろう。ワインやコーヒーと同じように、登山道にも味わいを評価するフレームワークがあれば、登山者はより自分好みの、魅力的な登山道を選ぶことができるようになるのではないか。

重信氏による評価案は下記5つの項目により構成されている。これは土木工学的な客観的な指標ではなく、登山者にとっての快適さや景観の美しさといった主観的な要素が含まれている。

  1. 歩きやすさ(草木による道の消失、雨水の流れによる侵食など)
  2. 安全、手入れ具合(標識、土留めの破損、橋や鎖場の老朽化など)
  3. 自然度(土や石の路面を良、セメント舗装などの路面を否とする)
  4. 景観(見晴らし、植物、水辺、歴史的建築物など)
  5. 設備(トイレ、休憩舎、水場など)

この項目に沿って登山の計画や登山後の振り返りをすることで、必要な準備物や登山道の比較をより立体的に行うことができるのではないか。

他にも本書には日本の修験道の歴史や明治以降にレジャーとしての登山が根付いた経緯も紹介されており、山好きに刺さる教養が得られた。

2021年に北海道・大雪山での登山道整備事業に参加して以来、自分にとって新たな山の楽しみ方が得られ、これからも何らかの形でこの事業に携わっていきたいと考えている。登山道の「目利き」としての力を養うためにも、まずは言語化が大切であり、この評価案を参考にしたい。

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ジョン・クラカワー(1997)『空へ』

荒野へ(Into the Wild)のジョン・クラカワー氏の著作。

経験の異なる初めてのメンバーでエベレストの頂上を目指すガイド登山隊の姿を、短期間で成果を出すプロジェクトに置き換えて読んでいた。技術力のなさが自分や仲間の命を奪うことにつながるかもしれない。結果を出すプレッシャーと過酷な環境下において正常な判断ができなくなる。即席のチームでは信頼関係を十分に構築することが難しい。

この本でやや個人主義的に描かれたブクレーエフのあり方は共感できた。自分のコンディションを先に整えることで結果的に仲間のための行動ができる。自分も似たような資質を持っているのかもしれない。

映画「MERU」に出てきたコンラッド・アンカーによる救助活動の話も触れられていた。過去に触れた作品がつながるのは面白い。

MERU/メルー (字幕版)

MERU/メルー (字幕版)

  • コンラッド・アンカー
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以下引用された文章で印象に残った箇所

だが、ときにはふと疑問に思ってしまうのだー自分が本当に求めているものは、あとに残してきたもののなかにあったのだ、ということを発見するために、こんな遠くまではるばるやってきたのだろうか、と

石川直樹(2009)『全ての装備を知恵に置き換えること』

『空へ』を読み終わったタイミングで、昔一緒に山に登った友人が読んでいたのを思い出して買った。

垂直方向に移動する
経験しなくても情報が手に入る時代。YouTubeを開けば世界大半の国を訪れた人の動画が見れる。街並みや市井の人々の様子も想像できる。だからこそもっと身体的な経験を大事にする。水平方向だけではなく、垂直方向(3次元)に自分の肉体を移動させる。

物理を専攻した後輩に以前『浅水波方程式』の話を聞いたことがある。海は地球の表面の最も外側の薄い部分を覆っている。なので海水は垂直方向よりも水平方向の動きの方が大きく、単純化すると「浅い水」のようなもの。アフリカで生まれてから水平方向への移動してきた人類も、ほとんど水でできていると考えれば海の水と同じ流体。流体である我々はずっと昔から水平方向に移動してきた。水平方向と比べて垂直方向への移動は容易ではない。もちろん飛行機や筆者の取り組む気球といった手段はできたが、人間そのものが急激な高度の変化に耐えられるようにはできていない。

水平方向の上向きに移動すれば酸素が薄くなる。初めて富士山に登った時は高山病になり、頭痛と吐き気に苦しんだ。下向きに移動しても同じく海の中に入り十分な酸素がなくなる。今自分がダイビングで潜れるのはせいぜい25m程度。たった25m移動するのに酸素ボンベを背負い器材を使い、それでも呼吸が乱れて頭や歯や耳が痛くなる。いくら技術やインフラが発達したとして、やはり人間の身体的な限界は変わらない。でも身体的な痛みや危険を伴うからこそその場所から見える景色が美しく思えるのかもしれない。

世界は狭くするのは人間
本書の中でタリバン政権が登場する前のアフガニスタンについて書かれている。2009年に出された本の数十年前ということは1960,70年代の話なのか。昔は旅人にとってのオアシスだったらしい。ちょうど中学生頃から同時多発テロやブッシュ政権の侵攻の話題しか聞かないから旅行で訪れるイメージが湧かない。イランやイラクについても昔は旅行できたと聞いたことがある。昔は行けたのに今行けないと聞くとなんとも残念な気持ちになる。ロシアもウクライナも、今はイスラエルにも行けない。世界に平面的な空白は残っていないかもしれないけれど、人間が壁を作り出している。

歴史・文化

ブリア=サヴァラン、玉村豊男(訳)(2017)『美味礼賛』

読んだからどうだ、ということはないが、フランス料理の成り立ちが知れて面白い。フレンチのコースがどのように決まったのか、なぜ料理に砂糖が使われないのか、レストランがどのように生まれたのか、などなど。輸入品であり珍しかったコーヒーやショコラについての記述が多い一方、当時はまだ現在のようなワインやシャンパンは作られていなかったらしい。

翻訳者の玉村豊男さんの解説(愛のあるツッコミ含む)が素晴らしかった。ぜひ元箱根のミュージアムに行きたいと思った

増田義郎(2020)『アステカとインカ 黄金帝国の滅亡』

8月にペルーを訪れ、帰国してから読み始めた。クスコやオリャイタイタンボなど実際に現地を見たところは話が入ってくる。後書きにも書いてあったが、優れた文明をもつヨーロッパ人が未開国家であったメキシコやペルーを一気に征服したわけではなく、激しい抵抗運動があった。インカ人も30年以上のゲリラ戦を続けているし、途中でスペイン人と持ちつ持たれつつの関係にもなっているので一言では片付けられない。

昨日偶然古本屋でハードカバー版を見つけたところ、文庫本にはなかった写真が10数枚載っていた。文庫本にも載せて欲しかった。

文学

次の2冊は、2023年2月に青年団の「日本文学盛衰史」を観に行き、その原作と平田オリザの書籍を購入したもの。青年団の劇は「カガクするココロ」、「熱海殺人事件」に続いて3回目。本当にいいものを観た。

www.seinendan.org

これは明治維新以降の日本の近代文学、文豪たちを生き返らせたもの。当時と現代が入り混じる仮想的な空間で、時代に翻弄されながら、新たな表現方法を獲得しようとする作家たちが何人も何人も出てくる。

終盤には生成系AIに話題にも触れ、クリエイターとしての文学者やその作品の価値がなくなっていくことへの業界人としての懸念と、別の宇宙で新たなクリエイターが生まれる(「もう一人の夏目漱石が宇宙で生まれる」)というセリフで一気に抽象度が上がり、心が揺さぶられた。

高橋源一郎(2004)『日本文学盛衰史』

明治時代の日本人は自らの内面を記述する言葉を持たなかった。使う言葉も語法もワンパターンで、書く本人が本当にこんなことを思っているのか、と疑いながらも、それ以外の方法で心を記述する術がなかった。この内面を表す言葉を作ろうと苦心していたのが作家であり、それこそが文学の目的だった。自分たちが普段当たり前に使う口語体、内面を描写するさまざまな比喩は、連綿と続く日本近代文学の発展があってこそだったのだ。

以前博物館で昭和初期に書かれた日本兵の手紙を読んだことがある。やたら見た目はいかめしく、美辞麗句が並ぶような文章を見て、全く感情移入できなかったことを覚えている。もしかすると貧しかったのは彼らの内面ではなく、それを制限しようとした時代背景であり、文脈を共有しない他者に伝えるための表現方法だったのかもしれない。

平田オリザ(2022)『名著入門 日本近代文学50選』

あとがきを読んでわかったが著者の祖父が国粋主義者であり、戦時中に戦争を肯定する作品を出す助けをしてしまったことに触れ、自身もそうなってしまうのではないかという懸念があったことを明らかにしている。本書に出てくる作家の中にも、戦前の表現の制限のために書くテーマを変えた作家や、軍国主義に染まって晩節を汚してしまった作家が出てくる。これは何も文学作品に限らず、社会の中で生きている限り、自分の手掛ける仕事が何らかのイデオロギーを帯びてしまうこと、利用されてしまうこと、利用することは、避けられない。

やっと日本の文学をちゃんと読もうという気になった。とりあえず30代のうちにこの本に出てくる作品を全部読めるだろうか。

自己啓発・一般

オリバー・バークマン(2022)『限りある時間の使い方』

やらないことを決める。時間を管理しようとしない。生産的であることに毒されない。ミヒャエル・エンデの『モモ』にも書いてあったが、時間を共有できてこそ幸せを感じる。本屋の先頭に並んでいるような本は手に取るのにやや抵抗があったが、読み始めるとかなり面白かった。

立花隆(2020)『自分史の書き方』

とてもジャンル分けすることが難しい本。自分の人生をかけて履歴書を作っていくイメージを得た。

『日本共産党』に続いて立花隆氏の著作。立教大学セカンドステージ大学での授業を元に書かれたもの。リタイヤ後に大学に学びに行くくらいなので、それなりに教養のある人が参加していたのだと思うが、それにしても受講者の文章力がすごい。当たり前であるがそれぞれの人にはそれぞれの人固有の変え難い経験がある。自分とは何か、人生をどう生きるかを考えさせられる時代。著者の言葉を借りると「自分の人生が何だったかを知りたければ、まず『自分史を書きなさい』」ということになる。最後に自分史を文章や人間関係図で表すとき、どういう作品を作りたいのか。最終的にどういう履歴書ができていれば良いのか、を逆算すると、行動力が上がるかもしれない。それを考えると色んな人展開がある方が面白い。場所や仕事や人間関係を続け、時に変え、価値観を更新しながら生きる。そして最後はどんな結果になろうともそれを受け入れ、流れに抗わずに死ぬ。

映画

映画は、何を持って観たとカウントするのかが正直難しい。今やAmazon Primeを開いてボタンを押せば新旧の作品を好きなところから再生できる。映画に没入しなくてもなんとなくシーンを進めることができる。それを持って映画を観た、と言ってしまうと、映画の価値を下げてしまう気がする。なので極端かもしれないが、やはり映画館に行く、とかDVDを借りて再生する、飛行機の中で続けてみる、みたいな身体的な動作、2時間なら2時間決まった時間を映画にコミットしないと、ちゃんと観たことにはならない気がする。そうすると実際に観た映画は年に数本になる。

あと、映画は言葉そのもので受け取る情報が少ないので、観終わってすぐに感想を書かないと何も書けなくなってしまう。

『最強のふたり』(2012年)

最強のふたり (字幕版)

最強のふたり (字幕版)

  • フランソワ・クリュゼ
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正月にフランス・パリを訪れ、そう言えばちゃんとこの映画を見ていなかったことに気づいた。

『アバター ウェイ・オブ・ウォーター』(2022年)

先住民と自らの属性の間で生まれる葛藤、体が死んだ後に魂が自然に戻るナビイと、魂だけ現生に止まり続ける人間の違い。
映像美や撮影技術もとてつもないがあるが、その背景にはある普遍的なテーマを、くどくない形で提示してくれる感じがした。

『マレーナ』(2001年)

マレーナ (字幕版)

マレーナ (字幕版)

  • モニカ・ベルッチ
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モリコーネに備えて観た。早速冒頭の海辺に自転車が立てかけられる場面から心を持っていかれる。静けさから始まり、性と暴力による動きがあり、また静けさが戻ってくる。結構ダメージはある。心に残っている。

『ミッション』(1987年)

これもモリコーネに備えて。音楽は大好きだけれどどうしても最後まで宣教師たちに同情できなかった。先住民からすれば求めてもいない労働や宗教を持ち込んでいるだけなのではないかと。

『モリコーネ 映画が恋した音楽家』(2023年)

あの研究室のような書斎で音楽が生まれたのか。もっともっと作品を追いかけて、また観たい。

『シェルタリングスカイ』(1990年)

どんどん破滅に近づいていって目も当てられなくなる。かなりダメージの大きな映画。坂本龍一がきっかけで見たけれど曲は全く頭に入らなかった。

『アラビアのロレンス』(1962年)

アラビアのロレンス (字幕版)

アラビアのロレンス (字幕版)

  • ピーター・オトゥール
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6月に映画館。午前10時の映画祭で上映されてた。3時間以上あって絶対に家だと観れなかった。

『君たちはどう生きるか』(2023年)

7月。音楽にインパクトがなかったのは映画の世界観を邪魔しないためだったのか。

『ホテル・ルワンダ』(2004年)

ルワンダ訪問前に観た。迫力ある戦争シーン、ではないが、迫り来る恐怖や隣人や家族を信じられなくなる不審感に追い詰められていく様子がかえって現実味があった。

以上読んでいただいてありがとうございました。