2020年に読んだ本と観た映画の紹介です。そもそもですが読んだ本、観た映画の定義が人によってかなり違う気がします。本なら紙の書籍、映画なら映画館で観る必要はなく、Amazonなどのサブスクを利用すれば全編にわたって目を通さなくても好きな箇所だけ楽しむことができます。注文履歴に残ったタイトルを全部書いていく、というのもありですが、ちゃんと消化していないものを紹介する気持ち悪さがあったので「全編の8割以上に目を通した本・映画」とします。8割というのも感覚値なのですが、これで辞書的に使った本や、すぐに読むのを止めた本は除外できます。また冊数については、上下巻やシリーズものはまとめて1冊とカウントしました。それでは早速いってみましょう。
政治
久米 郁男(2005)『労働政治 戦後政治のなかの労働組合』
第1,2章は「労働組合の政治経済学」とも呼べる非常に体系だった内容であり、とても面白かった。労働組合は、労働者(つまり構成員)の利益を実現するために経営者や政治家に働きかける利益団体という側面を持ち、少数もしくは特定団体の既得権益の温床になりかねない。いわば大きな声を出した人が勝つ世界。しかし政治学者ウィットマンは、利益団体がもの言う民主主義制度は効率的であり、利益団体の役割は政治家が意思決定する際の情報収集コストを軽減することだと主張する。
日本の場合、業界団体によって新聞、雑誌、レポート、色んな媒体が発行されており、これらも大事な役割を果たしているのかと考えるきっかけになった。
渡辺 惣樹(2019)『アメリカ民主党の崩壊2001-2020』
いかに民主党が自らの権力維持のため、貧困や暴力を解決しないまま放置してきたかが分かる。単に民主党の悪事を暴くというよりも、あらゆる社会問題は所与ではなく、解決策と同時に「作り手」が誰なのかを考える必要があるということ。経済格差や差別があることで、貧困層やマイノリティの支持を得ることができる。本当に問題が解決されると、自らの存在意義がなくなり、支持者に訴える内容がなくなる。なので問題を発明しないといけない。
よく駅前の街頭演説を聞いて巧妙なトリックだなと感心するのが「今より良い社会にしよう」と言われた途端「今の社会のままではダメなんだな」という気持ちになる。「格差や差別をなくそう」と声高らかに言われるほど「今の社会ってそんなに分断されているのか」と思わされる。あくまで相対的な差でしかないものの、出発点が0からマイナスに引き下げられる感じ。
コンサルティングという仕事にも同じ要素はある。気候変動の問題もそうかもしれない。問題と解決の関係性について考えさせられた一冊。
歴史
宮崎 壽子(訳)(2014)『ペリー提督日本遠征記 上・下』
米国海軍ペリー提督の東インド艦隊(黒船)の日本遠征に際し、ペリーが部下に作成させた報告書。すごいボリューム。古事記、日本書紀から始まり、日本の歴史、国土、動植物や国民性まで調べ尽くされている。相当な準備をして、敵を知り尽くした上で交渉に臨んでいたことが分かる。
本書を読んで初めて知ったが、1853年の浦和、江戸来航(黒船来航)の前後に、ペリーは合計5回も琉球王国を訪問していた。当時の艦隊(蒸気船)の燃料は石炭であり、長距離を航海する上で補給基地を確保する必要があった。アメリカが本当に開国させたかったのは日本ではなく琉球だったのではないか。
※2021年5月、沖縄・那覇滞在後に追記
首里の町には曲線が溢れている。首里城の周りには曲がりくねった坂道が続き、首里城の城壁や門に続く石段にも見事な角度が付いている。もちろん敵の侵入を遅らせる防衛上の理由もあるだろうが、それ以上の美意識を感じた。権力の象徴というよりも風が通り抜けるための通路、悠久という言葉が浮かぶ。首里は城下町でありながら、整然とした区画の整理はなされておらず、坂道となだらかな曲線が入り組んでる。沖縄県立図書館のデジタル書庫では、1700年代初頭(諸説あり)に作成された古地図が公開されているが、どうやら現存する道路は琉球王国当時と同じ位置にあるらしい。
一見ただの住宅のコンクリートのブロック塀に見えても、基礎(下部)の部分には王国当時の石垣や琉球石灰岩が残っている。この本『ペリー提督日本遠征記』にも、1870年代の琉球の様子が記されている。
提督は首里について次のように語っている。「これほど清潔な都市を私は今までに見たことはない。一片のごみや塵も見ることはなく、中国のあらゆる都市の汚なさ」とは非常に異なっている。
郊外の曲がりくねった小道をしばらくたどっていくと、那覇から首里にいたる広い舗装道路に出た。それは、イギリスのマカダム工法(砕石舗装)の道路にも劣らないほど立派な公道だった。両側の珊瑚岩の塀は、きわめて正確に接合されている。
ビジネス・経済
森 稔(2009)『ヒルズ 挑戦する都市』
森ビルの創業者による都市空間づくりへの想い。実際に六本木ヒルズやアークヒルズの周りを歩いてみると、本書で紹介されている森ビルのこだわりを体感できる。六本木のお供に。
梶谷 懐(2018)『中国経済講義』
GDP統計の不正や捏造がはびこる要因、不動産バブル、格差、共産党体制とイノベーションの関係など幅広いトピックがまとまっている。特に面白かったのはゾンビ企業の話とパクリ経済の話。ミアン・サミ(2020)『教養としての投資入門』
iDeCoやNISAを最大限活用する、という資産運用の指針が決まった。それでもお金が余れば株式など他の金融商品を買えばよい。資産運用のことであれこれ悩まなくなったので読んでよかったと思う。改めて書き起こすと当たり前ではあるが「人口が増え平均寿命が伸びるほど世界経済は成長を続ける」「インフレとは適度に現金の価値を下げる施策」という一節に思わず感心した。
尾原 和啓, 山口 周(2020)『仮想空間シフト』
リモートワークの是非について自分の思いを言語化するのにかなり参考になった。
本書では情報を共有するためのツールが普及した現代において、人というアイデアの製造工場(脳みそ)を移動させることの非効率さを指摘する。知的労働者(ホワイトカラー)の仕事を情報の製造業に例えると、「移動して打合せを行う」=「資材がある場所までわざわざ工場(脳みそ)を移動させて活動する」ことになる。
するとに対面での打合せやオフィスへの出勤のメリットは何か。製造工場を一点に集中させることで生まれる効率か、組織の監視方法としてコストがかからないのか。前者は情報共有ツールによって代替される価値だとすると、後者かもしれない。要は成果を生むための移動ではなく、サボってないか監視する手っ取り早い手段としての移動になる。そう考えると「自分はサボってないかを証明するために毎日電車に乗っているのか」というやや暗鬱な気持ちにもなった。
環境・エネルギー
今井 伸・橘川 武郎(2019)『LNG 50年の軌跡とその未来』
日本がどのようにLNG(液化天然ガス)市場の発展に貢献してきたが分かる。LNGの最大の輸入国として、最終製品を製造する都市ガス・電力会社を始め、液化プラントを手掛けたエンジニアリング会社によって、天然ガスを利用するインフラが整備された。またLNGタンカーのオペレーションは日本の海運会社、タンカーの製造は重工業企業が担っている。一つの製品を通じて、サプライチェーンが何たるかを理解するきっかけを与えてくれる本。
哲学・思想
國分 功一郎(2015)『暇と退屈の倫理学 増補新版』
2020年に読んだ本で一冊選べと言われたらこれ。昔から暇や退屈との向き合い方は哲学者のテーマだったらしい。確かに暇は人生の大罪(と言われている)。二つ印象に残った言説があり、一つはハイデッガーの「退屈する人間には自由があるから決断する」という結論。もう一つはユクスキュルによる「環世界」=生物は自己が知覚する世界の中を生きる考え方。人間の感覚には個体差があり、人によって知覚する世界が異なる。我々の誰しもが世界の断片的な情報をそれぞれ受け取って生きている。なぜかハイデッガーとユクスキュルが自分の中でつながり、だったら人間は自らの望むような環世界(間)を移動(決断)できるのではないかと思いついた。移動先の環世界に没頭できるものがあれば、暇や退屈はさほど問題ではなくなるのではないか。単純かもしれないが、腑に落ちた。千葉 雅也(2017)『勉強の哲学 来るべきバカのために』
「教師や入門書は有限化の装置」という一節が印象に残っている。膨大な情報(だと感じるもの)からいかに必要なものを抽出するか=有限化するか。仕事にしろ、勉強にしろ、このブログを書くにしろ重要だと思う。大学院時代はこの有限化が全くできないまま、重箱の隅に気を取られるような勉強の仕方を繰り返し、かなり時間を無駄にしてしまったことを覚えている。小説
安部 公房(1981)『砂の女』
こんなにも人の想像力を掻き立てる文章を書ける人間がいるのか。ページをめくりながら映像を観ている気分にさせられた。とんでもない本。作者が流動そのものと言った「砂」は、そのまま我々の社会環境に置き換えられるのではないか。地位や肩書など本来流動的な価値にすがる、なんとか楔を打とうと腐心する人間を強烈に皮肉っている。作者はまた定住社会について鋭い問いを投げかける。狩猟採集の暮らしを捨て、農耕民族として定住を始めた人類は、食料供給を安定させるための試みにより、逃れられない競争に引きずり込まれてしまう。
『暇と退屈の倫理学』では、暇や退屈の起源は定住生活の開始による余剰時間の現れだと述べる。余暇があるために、競争が生まれ、富の格差が広がる。余暇や間隙により、我々を取り巻く砂はいっそう巨大な体積で、いっそう速く流れるのではないか。だったら安定に多大なコストを支払うのではなく、執着心なく、軽やかに生きたい。悩みがあるときに読むと問題を俯瞰できるので、その意味で救いのある本だと思う。
木本 正次(1998)『黒部の太陽』
立山登山に合わせて読んだ本。登場人物が実名であるためか文献情報に忠実で、彼らの内面を掘り下げた記述は少なかった。労働環境の劣悪さや、水利権をめぐる地方自治体との折衝等、暴露本としての要素はない。吉村昭の「高熱隧道」読めばよかったかもとやや後悔。
山崎 豊子(2001)『沈まぬ太陽(1)~(5)』
日本航空社員の主人公は組合活動に注力する中、経営層から共産主義者・危険分子のレッテルを貼られ、アフリカやイランに左遷される。一見組織と個人との対立がテーマのように見えるが、実は人間の持つ闘争への欲望を描いているのではないかと思えた。左遷に合う主人公への同情ではなく、組織に抗ってまで信念を貫こうとした主人公への羨望。「そんなに会社に反抗するなら転職すればいいのに」と何度も思った。それをすると物語が成立しなくなる。やはり人間は闘争を求める生き物なのか。R.F.ジョンストン(著)中山 理(訳)(2005)『紫禁城の黄昏 完訳 上・下』
清朝最後の皇帝・溥儀の家庭教師であった英国人ジョンストンによる著作。映画『ラストエンペラー』の原作。興味深かったのは清朝の教育制度のくだり。紫禁城(故宮)に住む皇族たちが資産を管理できなかった理由は、古典を重要視するあまり算数を軽んじた清朝の教育に問題があったと指摘されている。しかし簿記や会計に携わる人間は算盤を使って計算を行うことはできたという。ところが算盤では一行計算するごとに計算結果が消えるため、逆算して誤りを検知できない。これをジョンストンは、逆算をして(過去を反省して)誤りを探したがらない傾向があり、計算(物事)を進めるごとに、一算(一つ一つのステップ)の結果が消えるのをやり過ごしている、と述べている。
満州国に渡って以降の溥儀の生活は、山室信一(2004)『キメラー満州国の肖像』が詳しい。
ミヒャエル・エンデ(2005)『モモ』
有名すぎる児童文学。誰かと共有することができなければ、その莫大な容量に自分自身が押し殺される。時間の価値とは、有限であること、そして共有できること。同じ時間を過ごす人間が存在して初めて、その時間は価値を持つ。モモの感じた孤独は、無限であり自分だけが享受できる独占的なものだった。有限と無限、共有と独占。ゆたかさとは何かを考えるきっかけを与えてくれた一冊。
ノンフィクション
落合 信彦(1984)『モサド、その真実 世界最強のイスラエル諜報機関』
まず著者の取材力に驚いた。イスラエルの防衛意識をもたらす要素と、日本の平和さに気付かされる。反イスラエルのアラブ諸国に囲まれ、国土は狭く、資源が豊富な訳でもない。この制約下で国家を生存させる方法が情報の活用(諜報)だった。兵役義務や、家屋新築時のシェルター設置義務など、市井の中にも国防を想起させる様式が多々見受けられる。パメラ・ドラッカーマン(2008)『不倫の惑星』
不倫の背徳感のルーツに感心をもった主人公の女性が、10か国を訪れ不倫のルールについてインタビューしたもの。7章の日本は一読の価値ありです。本音と建て前の使い分け、そして性産業の巨大さはこの国の特徴。近藤 雄生 (2019)『吃音: 伝えられないもどかしさ』
自分自身、吃音とどのように付き合ってきたのかを思い出させてくれるきっかけになった1冊。自伝・エッセイ
猪木 寛至(2000)『アントニオ猪木自伝』
すごい人生。ここまで失敗談を赤裸々に語れるものなのか。幼少期のブラジル移住、プロレスデビュー、組織を追われ、家族が離れ、資金繰りに苦しむ。そして政治家として臨む外交。自分は精一杯やれているのかと問われる気持ちになる。
島地 勝彦(2009)『甘い生活 男はいくつになってもロマンティックで愚か者』
このブログのタイトルの「生活」はこの本から勝手に頂いた。この本をきっかけにシマジ先生のバーを訪れ、著作をどんどん読み進めることになる。自分のなりたいおじさんの一ロールモデルである。岡本 太郎(2017)『自分の中に毒を持て<新装版>』
一文一文無駄なくシンプルで、ソリッドな文章。本書の一節に「いずれという言葉は現在の自分への責任のなさ」という一節があり印象に残っている。今はまだ実績が足りないなどと言い訳して、行動を先延ばしにすることは、裏を返せば現在の自分に自信を持てていないこと。現在の自分への自信のなさを隠すため、過去にこだわったり、未来でごまかそうとする。完璧主義とは言い換えれば現在の自分への無責任かもしれない。今勝負するしかない。とはいえ実践することは難しい。映画
大島 新(2020)『なぜ君は総理大臣になれないのか』
17年間にわたる小川淳也衆議院議員のドキュメンタリー。特に制作手法が映画関係者間で評価が高いと聞いた。政治家版の情熱大陸みたいなものか面白そうという気持ちで映画館で観た。
全編を通して、組織の利益(党利党益)や地域への仁義と、個の信念の間で揺れる一人の男性の姿が描かれている。ここに浮かび上がってくるのは「出世しないと誰も話を聞いてくれないし、何も変えることができない」という、至極真っ当な論理である。選挙区で勝たなければ党内での発言力は得られない。目先の選挙で結果を残すために腐心する。
映画の終盤で「小川は政治家に向いていないのではないか」と小川議員の家族が話す。小川議員自身もそれを認めている様子だ。家族や周りの親しい人、誰に頼まれた訳ではない。辞めたければ辞められる。何としても権力を得たいという欲望がない。私欲がない。そしてそれこそが政治家としての欠点であると、本人も認めている。
小川議員は元々総務省の官僚だった。政治家に転身した理由として、総務省の中で出世しても日本を変えることができないからだと説明する。形式上省庁のトップは大臣であり、官僚にとって大臣はお客様である。その大臣よりも影響力のあるのが省庁のOB。この構造の中で戦い続けても、自分の信念を実現することができない。
映画の冒頭で小川議員の印象に残る言葉があった。
「表面上は0対100に見えることでも、実際には49対51であることがある。51の側は選ばれなかった49の側の思いを引き受けないといけない。」
連日のコロナ禍対応やGoToキャンペーン等の報道を見ると、政治判断のプロセスが不透明な故か、政治家を批判する記事がよく目に入る。我々有権者の目に入るのは選ばれた51の側の判断だけであって、選ばれなかった49の側の意見が見えていないだけかもしれない。目に見える判断だけを取り合げ文句を言うのは簡単である。しかしこれを続けていては有権者が政治家の揚げ足を取るような閉塞的な政治が続くだけなのではという気もする。自ら分断を作り出すのではなく、49の側の見えざる判断に対する想像力を働かせる努力は必要だと思う。
後日考えたことだが、政策立案時の賛成・反対意見の比率と、政策の良し悪しは相関するのだろうか。つまり事前に反対票の多かった政策は、やはり失敗する(政策評価が悪い結果になる)のか。反対に満場一致で決定された政策はうまく機能するのか。株主総会などのアナロジーとして考えられるかもしれない。どうやったら検証できるのだろうか。例えば議事録のテキストデータから「反対」や「懸念」を表すワードを拾う、ぐらいしか思いつかない。同時に、行政の誤謬と呼ばれる予言の自己成就のバイアスをいかにして取り除くか、も実証研究を行う上での重要な課題。選ばれなかった決定、起こりえなかった未来をどう評価するか。まとまらなかったが因果推論みたいな話に行きついてしまった。
以上、読んだ頂いてありがとうございました。