Goodな生活

経済学→環境コンサル→データサイエンティスト

2022年に読んだ15冊+観た6本

今年も早いもので残りわずか。2020年2021年に引き続き、読んだ本と観た映画でこの1年を振り返ります。今年はSFや自然科学の本など、今まで自分が読んでこなかったジャンルを開拓できた気がします。一方で買ったものの読み切れなかった本もいくつかあり、例えば旅行で訪れたアメリカ、タイの歴史の本はちょうど現地滞在時に購入して読み始めたものの、すぐに挫折してしました。例えその国を実際に訪れたとしても、自分が知れるその土地の歴史や文化のほんの1部。知識を自分のものにしようとして、何事もすぐにはそうできないことを改めて感じます。それでは本と映画を振り返ります。

小説

堺屋太一(1981)『団塊の世代』

YouTubeで知った本。「団塊の世代」という呼称はこの小説が由来で。国の成長や景気を考えるとき、その国の人口構成によって大部分が説明されるという人口史観に基づく考え方。当たり前と言えば当たり前だが、この大前提に立って初めて意味のある施策を論じることができる。

1947~49年に生まれた団塊の世代は現在72~75歳。この小説の書かれた1990年代には中年層(ミドル)を構成し、日本の人口ピラミッドのボリュームゾーンを占め続けている。幼少期から競争原理に揉まれ、自らが中産階級だと意識し、やがて過剰な労働力(コスト)として人員整理の対象になっていく様が描かれている。

「社会の中年化を見落としていたからだ」(中略)
人間の趣向や価値観は、本人が意識するか否かにかかわらず、肉体的条件と社会的立場によって変化するものだ。そして社会全体のムードも、最も大きな影響力を持つ世代の年齢層によって変わって行くものなのである。

結局日本社会全体のムードは団塊の世代の価値観なのだろうか。東南アジアなど若年層の比率が多い国とは活気が違うという話も何度も聞いたことがある。人口で社会の大部分が決まるのならば、即座にそのトレンドを変えることはできないし、それをそれとして受け入れる他はないのかもしれない。もしくは若年層が多く勢いのある国に拠点を移すのもよい。

大学生の時に読んだ『なぜ日本は没落するか』を思い出した。

ヘルマン・ヘッセ(1971)『ガラス玉演戯 上・下』

3月にロックバンドQUEENの展示に行ったとき、ブライアン・メイの好きな著作だと書かれており、気になって読み始めた。4月初めから7か月かけ、没頭感と疎外感を交互に味わいながら、かなりエネルギーを要して読み終えた。

ヘルマン・ヘッセは小学生の国語の教科書で読んだ「少年の日の思い出」、大学生のとき読んだ「車輪の下」に次いで3冊目で、これまでで一番の長編だった。

全編を通じてタイトルの「ガラス玉演戯」の定義や具体的な描写はなされない。そのためかなり抽象度が上がっている。東西の芸術、歴史、学問を統合した、総合芸術、総合的な表現。きっと筆者には球体のガラスとそれを回転、振動、衝突、移動させるための軌道や道具がかなり明確には見えていて、それでいて技術的な話になるのを防ぐため、核心的な描写をあえて避けていたのではないか。

物語の終盤、主人公は自らの属する機構や役職を相対化し、踏み越えようと決断する。この決断と主人公の遺構とされる短編の「インドの履歴書」の終盤とがつながっているように感じた。つまりに人生の美しさと残酷さこそが迷いであったと気づくくだりである。

世界は絶えず変化するもので、その中で決断することが人間の営みなのだと。何となく自分はこういう前提に立って人間はどう生きるかを言語化するヒントを小説に求めているのかもしれない。

ジョージ・オーウェル(1949)『一九八四年』

なんとなくとっつきにくそうだと長い間敬遠したいたが、いざ手に取るとすらすらと読めた。甘んじるでもなく、諦観でもなく、すがすがしく自らの変化を受け入れる主人公の、なんとも言えない幕引きだった。

この本を読むと、本当に歴史や自然科学など客観的な事実が存在してくれることのありがたさを覚える。過去の出来事の大半は我々が直接経験したものではない。何らかの記録や伝承や考古学的知見によって発見、再構築されていくもの。直接確かめたことがないのだから、それらを改ざんしてしまえば何事もありえるし、何事もなかったことになる。自分たちが小学校からずっと学んできたことの中に、その存在を照明できたものがどれほどあるのだろうか。

ある日主人公が意を決してパブで老人に語りかけた日、その老人は過去の記憶を語ることができなかった。人間の記憶と経験や知覚したままの状態を維持することができない。なんとも心もとないものだった。

解体されたビル、テナントの出て行った店舗、景色は変わってしまえばその前に何があったかなどいちいち思い出せない。人はそれを当たり前に受け入れる。我々が目にする風景にさえ客観性がないような気もしてくる。

自然科学も同じことが言える。人間が想像力によって法則が導かれ、それを裏付ける観測が行われる。想像力、つまり精神があって初めて物質や現象が具現化する。地震、台風、天体の動き、自然現象は人間の認知の中に存在する。

人間の認知を外部化したものが、統計やデータベースであり、これらが常に整備されていることが、社会の進歩を担保する。多くの人にとって客観的な事実が存在すること、これ自体がなんともありがたいことなのだと感じさせられた。

ロバート・A・ハインライン(1956)『夏への扉』

『一九八四年』の流れで往年のSF名作を読もうという気持ちになっていた。友人の家で手に取り、一気に読み終えた。読後感がとても爽やか。もう少し若いとき、高校生か大学生始め頃に読んでいれば、また感想が違ったのだと思う。自分の経験が増えたことで想像できる余地が縮んでしまった部分もある。

自然科学

リチャード・ドーキンス(1976)『利己的な遺伝子』

私たちは、遺伝子という名の利己的な分子をやみくもに保存するべくプログラムされたロボットの乗り物ー生存機械なのだ

と冒頭にあり、これを読むとあらかた本の趣旨が分かったような気になるがそこまで単純な話ではない。利己的(selfish)、つまり合理的な判断をする遺伝子という学説を始めに主張し、そこから派生して性別や役割や種や群の優劣、親子・兄弟間での不平等など様々な問いに対して利己的な遺伝子学説をもって説明するという流れになっている。とてもキャッチーな説明である一方、背景にある説明を正しく理解するのはなかなか大変だと感じた一冊。

長沼毅(2013)『深海生物学への招待』

深海生物学者である筆者による科学エッセイ。海洋全般の基礎知識を踏まえた上で、なぜ深海が特別な場所かが丁寧に説明されている。読み物として面白いのはもちろん、海の温度、密度の違い、酸素や二酸化炭素の賦存量、水圧と骨格、栄養循環なども説明されている。3年前にダイビングを始め、今年は船舶免許を取ったこともあり、海洋への興味は段々と強くなっている。まずはこのような入門的な本から徐々に読めるもののレベルを上げていきたい。

この本を読んだあと、実際に「しんかい」で調査をする様子を見ると理解が深まる
www.nhk-ondemand.jp

ユクスキュル、クリサート(2005)『生物からみた世界』

2020年に読んだ『暇と退屈の倫理学』で紹介されており、気になった本。

同じ時間、同じ空間で過ごしていても人によって認知するものが違う。客観的な環境や時間というものは存在せず、生きた主体、すなわち人間や他の生物によって知覚される世界と作用するものによって、それぞれの環世界が構成される。著者の表現を借りると、人間や他の生物はそれぞれシャボン玉に包み込まれており、それぞれの環世界を生きている。時間と空間は主体にとって直接の利益はなく、多数の知覚標識を区別するときに初めて意味を持つ。

人間の認知もかなり主観的なもので、環境や起こった出来事はいかようにも解釈ができる。主観によって自分の構成する環世界を少しずつ変えていけるのが、人間のおもしろさなのかもしれない。

社会科学

カール・E・ワイク(1997)『組織化の社会心理学』

初めて手に取ったのは大学時代で、会社という組織に属し、プロジェクトでのチーム作りやその改変を経験して改めて腑に落ちる内容もある。個々人のフィルター、認識を通していかにして組織化が行われるかを説明したもの。

昨今、「組織」とセットで語られる言葉として「多様性」があって、多様性がある方がよいアイデアが出るとか、危機に対するレジリエントがある。一方で多様性とは個々人のデモグラフィックな違いは許容されるにしても、自分勝手に行動する集団がいいわけがない、と違和感を持っていたところ、本書の「多義性」の削減という話に納得がいった。

組織化(organizing)とは意識的な相互連結行動(interlocked behaviors)によって多義性(equivocality)を削減するのに妥当と皆が思う文法と定義される

つまり組織化、会社やグループやコミュニティなど複数人でチームを形成することは多義性(=あいまいさ)の削減すること。具体的には文法、つまり手法について共通した認識を持つこと。本書の別のパートで組織とは目的ではなく手段を共有する集団という話があるがそれにも通じる。なるほど、多様性はあってもよいが多義性があると一つの組織としてまとまらなくなる。逆に多義性(equivocality)の削減を進めることで、結果的に組織の多様性(diversity)は担保されるのではないか、という気もしてきた。

会社の求めるスキルや経験を限定し、提供する価値を明確にすればするほど、出自や経歴などデモグラフィックな要因は大して意味をなさなくなるのではないか。多義性を削減しきれてないにも関わらず、多様性を担保しようとするには本末転倒な気がする。

「多様性」をどうするかという話と同じぐらい「多義性」の議論も大事なのではないか、と思った。

あと有名ではあるが、Murray Davis(1971)による社会科学の「おもしろい仮説」を立てるための、12の要素が整理されている。おもしろさを抽象化したリストであり、仮説構築自体に役立つかどうかは分からないが、世の中で「おもしろい」と言われる研究やビジネスをパターン化するときには役立つかもしれない

  1. 不偏性(Generalization)
  2. 組織(Organization)
  3. 因果性(Causation)
  4. 反対性(Opposition)
  5. 共変動性(Co-variance)
  6. 共存性(Co-existence)
  7. 相関性(Co-relation)
  8. 機能性(Function)
  9. 抽象性(Abstraction)
  10. 複合性(Composition)
  11. 評価性(Evaluation)
  12. 安定性(Stability)

佐藤航陽(2022)『世界2.0 メタバースの歩き方と創り方』

とりあえずメタバースについてざっくり知りたいと読み始めたが予想以上に面白かった。物理空間と仮想空間(サイバー空間)の違いの一つが有限な土地(領土)や資源の奪い合いの有無だと言う。

ロシアとウクライナでは領土侵略を含む戦争が続いているものの、基本的には他国の領土を侵略・征服することができず、他国の資源にアクセスする場合には武力ではなく国際貿易の形がとられる。これは1918年第一次世界大戦後に米国ウィルソン大統領によって発表された「14箇条の平和原則」によって根付いた領土侵略・征服を認めない規範であり、これを脅かす国に経済制裁が与えられる。

土地や資源に限りがなく、必要なら新しく作ればよいというメタバース上であれば、それらコンテンツを巡る争いは起こらないとも考えられる。有限だからこそ希少性という価値を生み高値で取引されてきたこれまでの資本主義とは別の価値体系が発生するのかもしれない。

自伝・エッセイ・インタビュー

植村直己(1977)『青春を山に賭けて』

小学生のとき豊岡の記念館を訪れたことがある。世界的な登山家だと知ってはいたが著作を読むのは初めて。

文面から著者の純粋さ、人懐っこさ、挑戦を応援されるに資する人間力が伝わってくる。インターネットのない時代。自ら情報を集め目標を達成していく、なんという行動力か。そこには世俗から距離を取る世捨て人、孤高な雰囲気は全くない。むしろ自然に携わる人達との交流が好きだったのだろう。

1967年の初め、スイス国境近くのスキー場でアルバイト3年目を迎えた著者は次の目標を立てた。

  1. グリーンランド行き
  2. フランス国立登山学校への入学
  3. アンデス(アコンカグア)の単独登山
  4. 仏・英語、読書の徹底

ああ偉人もこのようなメモを書いたのか、と親近感を抱いた。

自分も今年に入ってから上の目標と似たような粒度で、残りの人生でやりたいことを書き出した。欲張っていることは百も承知で目標を書き出す。今の自分は何かを成し遂げたとは露にも思わないが、何かを成し遂げた人もまた無謀なレベルでの目標を立ててきたのだと思う。だからではないがやはりやりたいことを明確にした方がよい。

立花隆(1985)『宇宙からの帰還』

立花隆は「小林・益川理論の証明」に続いて2冊目。宇宙飛行士の内的経験にフォーカスしたインタビュー集。地球の美しさ、かけがえのなさ、争うことの愚かさについて実際に宇宙に行った人の言葉で語られると説得力がある。確かZOZOの前澤友作も同様の発言をどこかの動画でしていた気がする。

宇宙飛行士たちが異口同音に述べたことは、地球の上で国家と国家が対立し合ったり、紛争を起こしたり、ついには戦争までして互いに殺し合ったりすることが、宇宙から見ると、いかにバカげたことかよくわかるということ。

アポロ7号乗船のドン・アイズリ曰く、地球にいる人間は表面にへばりついており、人種や文化や平面的な相違点を見るのに対し、宇宙からは本質的な違いしか見えない。つまり同じホモ・サピエンス種に属するものとして同一に見える。

同じくアポロ7号のウォーリー・シラーは次のように語る。

私はこの地球という惑星から三度離れたことがある人間としていうのだが、この地球以外、我々にはどこにも住む所がないんだ。それなのに、この地球の上でお互いに戦争し合ってる。これは本当に悲しいことだ

後述する『わたしの宮沢賢治』には毛利衛氏が1985年の宇宙飛行士試験の受験の際に知り合ったほとんどの受験生がこの本を読んでいたと書いている。科学技術の発展には研究者だけではなく、著者のようなジャーナリストが必要なのだと感じた。

毛利衛(2011)『宇宙から学ぶ――ユニバソロジのすすめ』

『宇宙からの帰還』の後に日本人宇宙人飛行士の本も、と手に取ったのがこちら。日本人ならではの感性をもって宇宙空間を経験したことによる価値観の変化が綴られている。宇宙から見える1,000kmスケールの地球の光景には人間の姿はなく、人間がいるいないにかかわらず地球は存在するという考え方になる。地球の歴史の中での人間の存在の小ささとだからこその尊さに気付く。やはり物事を俯瞰的にみる、人類の存在の小ささに気付くことが平和につながるのだと思う

毛利衛(2021)『わたしの宮沢賢治 地球生命の未来圏』

著者がオーストラリアへの留学時代、日本語の活字に飢えてむさぼるように読んだのが夏目漱石と宮沢賢治。どちらも国語の教科書に載っているレベルでしか読んだことがないが、読んでみようかという気になった。宇宙の黒と太陽の白を、まるで見てきたかのように表現する宮沢賢治。やはり詩人は普通の人には見えていない色が見えるのだろうか。

宮崎駿(1996)『出発点―1979~1996』

購入したのが2021年の初めなので、1年以上かけてゆっくり読んだ本。かなり分量が多い。だからゆっくりと宮崎監督の映画作りの苦労やにじみ出る思想を味わうような感じだった。何か強烈な情熱というよりも、全編を通して答えのない禅問答、無から有を生み出す苦しみを感じる。特にナウシカの話。他の映画とは全く別物なのだと感じた。

この本を読んで、作品作りのノウハウや明文化されてなかった設定など、分かることはたくさんあるが、実際に出来上がった作品との間に大きな乖離がある。再現性がない、というか同じ技術や知識をもってしても、誰とてジブリ作品と同じものは作れないだろうな、という感じがする。まあそれは映画ではなくてもどの芸術にも同じことが言えるかもしれない。言葉で伝わるものは限られていて、言葉じゃないところに人は心を動かされる。

アン・モロウ・リンドバーグ (1967)『海からの贈り物』

文章への共感とその美しさに感動し、付箋を貼る手が止まらなかった。煩雑な毎日の中で現代人は時に自分を失ってしまう。注意をそらされ、時間に追われる。そのような毎日から逃れ、一人で海を眺めながら徐々に自分を取り戻す。注意を自分に向け、ゆっくりと時間を過ごす。そういうプロセスを浜辺で拾った貝に重ねながら、美しい文章を綴る。自分自身すぐに注意をそがれてしまうので、こういう時間が必要で、紙にペンで思ったことを書いたりもする。しかしこのように綺麗に整理することはできない。文章にならないような、断続的な言葉な破片を並べるだけ。人間の心の深い部分に触れながらも、支離滅裂にならずに紡がれたもの、これこそが良い文章、救われる文章なのだと気づいた。素晴らしい本だった。

映画

ジュゼッペ・トルナトーレ(1998)『海の上のピアニスト』

モリコーネの美しい音楽と客船の映像とが組み合わさり、大型船を思い浮かべると自動的に頭にサントラが再生されるようになってしまった。圧倒的な技術を持ちながらも、一歩引くような、少し恥ずかしそうな主人公の素振りが印象的だった。テーマ曲のPlaying loveをピアノで弾けるようになりたい。そしてにっぽん丸のホールで弾きたい。

セルジオ・レオーネ(1984)『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』

同じくモリコーネが主題曲を担当した映画。主人公の年の取り方、戻らない時間に思いを馳せる様子と音楽がよく合っていた。ただし少し胃もたれするような暴力的な描写も多く、そこまで感情移入することはできなかった。後半やや展開についていけない部分があったのでもう一度観たい。

D・J・カルーソ(2008)『イーグル・アイ』

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通信機能と動力を持った機器やインフラがAIに乗っ取られ、人間の行動はすべてそれらの制約下に置かれることを暗示するSF。元々成田悠輔氏がどこかの講演で言及して気になっていた映画で、社会の最適化を進めた結果訪れる悲しい世界を現わしているように思える。色んなモノにセンサーを取り付け、リアルタイムの情報を得ようとする人間は、何かを管理したいのか、それとも管理されたいのか。Internet of somethingの結末はどうなるのか。

クエンティン・タランティーノ(2016)『ヘイトフル・エイト』

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11月のモリコーネの追悼コンサートの後に薦められて観たもの。タランティーノは多分キルビル以来。これは何の準備もなく楽しめる映画で脚本がしっかりしてて最後まで楽しめる。推理小説のお手本?のような構成だと思った。出てくる人々があまりにも簡単に銃を撃ちすぎるので、ともすれば協力して配分を得られたのになんとももったいない結末になってしまう歯がゆい感じもする。

キャロル・リード(1950)『第三の男』

第三の男(字幕版)

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ギター工房の師匠にチターという弦楽器がテーマ曲に使われている、と聞いて観た映画。今までこういう往年の名作みたいな映画をあまり観てこなかったがすごく面白かった。この軽快な音楽は何というか人生のあっけなさを現わしているのかもしれない。

特にラストの地下水道のシーンはどこか既視感があり、多くの映画にてオマージュされているものらしい。いわゆる著作権の切れたような往年の名作と言われるものをこれから観てみようかと思った。

ヴィットリオ・デ・シーカ(1970)『ひまわり』

ひまわり (字幕版)

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  • ソフィア・ローレン
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これも師匠に薦められた映画で、ソ連が舞台でウクライナのひまわり畑が描かれる、まさに今観るべき映画とのことだった。豪快で奔放、情熱に溢れる(昔ながら?)のイタリア人のイメージが描かれていた。どちらが悪いわけでもないが、二人が一緒にはなれない。人生の折り返し点をすぎ、それを受け入れざるを得ないまま、別々の人生を歩む。生きていくしかない。人生の一瞬のきらめきと、諦めにも似た残酷さの両方のエッセンスが詰まっている良い映画だった。