先日大阪天王寺のスタンダードブックストアを訪れた。この本屋の内装を手掛けたという友人に教えてもらった。その友人の手掛ける施工は、あらかじめ決まった設計に沿って進めるものではなく、ラフなスケッチを元に、時にボランティアも巻き込みながらその場その場のアイデアや材料を活用して完成形に近づけていく、創発的なプロセスだと聞いていた。いざ本屋に着いて2階に上がるとその意味が分かった。
並べられたいくつかの本を手にとり、自分は本が好きな人間だったのだと気づいた。遠い国や過酷な環境下に心を連れて行ってくれたり、自分にとっての常識を相対化してくれたり、もやもやと渦巻く感情を言語化してくれるような、最近こういう本を最近読めていない。自分の机のすぐ横にも本棚はあるにはあるが、プログラミングや最新の技術、統計学、ビジネス書みたいなものが目につく。これも本ではある。題名があり表紙がありページがあり、本の形をとってはいるが、やっぱり本ではない。
本ではないとはどういうことか、つまり本来の本の性質は何かを考えてみると、無目的性なんじゃないかと思った。逆に言うときちんと章立てが構造化され、情報として整理された形になった読み物は、読者に対し、読むにあたっての仮説や成果を押し付けてくるような感じがする、つまり目的を立てざるを得ないような圧力を感じる。目的があるということは有限で、ある意味自分の考えた仮説の範疇を超える何かを得られる可能性は少なくて、極端に言えば何かの数字や単位で情報量として変換できそうな気もする。
でもそういう情報量みたいなものをここ何年間も求めてきたことは事実。特に大学院に入ってから自分に足りない知識を得るために、読めないレベルの本をたくさん買ってきた。何とか食らいつこうと理解できない数式を展開するしんどさを味わった。それはそれでよい経験だったのだけれど、でも自分の価値観や思想を作っているのはやはり無目的に読んだ本だったのではないか。その中で出てくる人や場所や料理を追いかけたり、今の自分を肯定したり、今ここではない別の人生を生きた可能性に思いを馳せたりしてきたのではないか。
無目的に、楽しんで本を読めているのか、少し振り返るきっかけとなった。