Goodな生活

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NSドキュメンタリーセンター・ミュンヘン

1月4日(土)。BMW Weltの後に友人と向かったのが、ミュンヘン・NSドキュメンタリーセンター。NSは国家社会主義の略。ドイツ旅行で最も印象に残った場所。戦争の歴史、博物館の役割等、様々な思いが巡った。自分の知識や思考の整理不足の状態ではあるが、メモとして残しておく。

どんなところか

1918年から1945年、第一次世界大戦から第二次世界大戦の終結までのナチスの歴史についての博物館。2015年オープン。建物は新しく、内装は白で統一。ナチスの党本部の跡地に立地。ここは「ミュンヘン一揆」で知られているように、政治家ヒトラーを生んだ街。入館料は無料。10人程のグループのEnglishガイドツアーに参加。アジア人はおらず。4階からスタートし、3階、2階、と時系列に沿って階を下る。ツアー自体は2時間ほどで終了。展示資料が膨大であるため、1階につき1時間~1時間半ほどはかかる。時間に余裕をもって訪れたい。写真撮影は可能だったが、内容の理解にかなりの集中力を要し、かつ熱心に資料を読み込む他の来館者の前でパシャパシャやるのも気が引けたため、館内の写真はなし。

外観。地上4階が博物館、地下2階は資料室と図書館

「せめてドイツ近代史を予習してから行った方が実りがあるだろう」との助言を受け、前日に勉強。1918年、ドイツは第一次世界大戦で敗戦。ワイマール共和国の成立。女性参政権を認めるなど模範的な民主主義。第一次世界大戦の賠償金、ハイパーインフレで大量の失業発生。国民の不満。皮肉にも民主主義の下ヒトラー(国家社会主義ドイツ労働者党)の台頭、1933年第一党に。ホロコースト、ユダヤ人の排斥、強制収容所の設立。連合軍への敗戦とヒトラーの自殺。

感想

モダニズムへの嫌悪→経済的損失→右翼思想の助長?

ミュンヘン市民はオクトーバフェストなどの伝統的行事を好み、米国由来の新しい芸術・文化を嫌う傾向があったらしい。先日のダッハウ収容所でもナチスによって落書きされた芸術品が展示されていた。伝統への過度な慣性が「既得権益を守り、技術革新の機会を失う」などの経済的損失につながり、労働者の不満を反映する形でナチスが支持されたのかもしれない。これの検証も兼ね、インフレ時のドイツ各都市別の労働者の所得や没収資産額(インフレの影響の大きさ)など見てみたい。

ツアー同グループの参加者が「当時と比べて経済状況はマシなのに、なぜ最近ドイツで右翼が支持されるの」とガイドさんに質問。ガイドさん「絶対的な貧しさが問題ではなく、人々の不満が右翼思想を生む土壌を作る」という趣旨の返答。いかに人々に不満を抱かせないか、(情報操作との見方もできるが)不満から目をそむけさせるか、も大事な政治家の役割だなと思った。

幼少期の暴力経験と政治的武力行使の正当化

政治目的で暴力を行使したナチスは、青年層からの支持率も高かったらしい(もちろんメディアがプロパガンダに利用されたのは事実)。この青年層は幼少期にWW1を経験しており、彼らにとって暴力は至極真っ当な政治的手段だったらしい。現地でこの説明を読んだときは違和感があったが、日本に帰って落ち着いて考えると納得がいく。

失業政策としては有効だったのか?

インフレ当時40%もの失業率だったドイツ。ナチスも雇用政策を重点に置いた。館内資料には、失業率(unemployment rate)と軍事支出(military expenditure)がきれいに負の相関を描くグラフがあった。失業者はインフラ・軍事施設等で職を得たのか。ユダヤ人排斥は内需拡大を目論んだ戦争を正当化するためのスケープゴートだったのではないか。ユダヤ人の携わる金融・小売り業への規制は労働力の再分配だったのではないか。この点はガイドさんに質問すればよかったと今でも思っている。うまく英語にまとめられなかった。後悔。

博物館の役割ー客観と規範ー

NSに来て驚いたのはその客観性。ドイツにとって負の歴史とも言えるナチスの記録を、写真・数字・個人名を併記しながら、時系列で追う。繰り返しだが入館無料、英語オーディオガイドも無料配布、開かれた博物館である。この潔さは何なのだろう。他方、今まで僕が訪れた日本の戦争博物館ー遊就館や原爆ドームーで感じたのは「客観」というよりも「規範」だった。

「客観」とは歴史のメカニズムであり、力学。政治体制、諸外国との関係、経済・社会状況などから戦争の帰結を類推するための材料。メカニズムを考えることで予測ができる。一方、「規範」は「戦争は悲惨、貧困を招くので繰り返してはいけない」「ご先祖様や今の平和な時代に感謝しよう」というメッセージ。史実は静的ではなく後世の解釈によって更新されるものなので、両者は混在して当然だが、そのバランスに違和感を感じ得ずにはいられない。

違和感を生む理由の一つが「日本人が歴史に求めるエンターテイメント性」ではないだろうか。毎年大河ドラマが放送され、主人公ゆかりの地域には多くの観光客が足を運ぶ。戦争をテーマにした小説や映画の新作には枚挙にいとまがない。歴史コンテンツへの需要はある。しかしそれらはどこか遠い、バーチャルな世界。エンターテイメントとしての歴史は好きだけれど、目の前の政治への関心は薄い。博物館であれ映画であれ「自分の見たいものにお金を払う」意味では同じエンターテイメントではないか。値段が付けられ、好きな時に消費できる使い勝手の良い規範。

18時スタートのオペラに間に合うよう、16時半ごろ博物館を後にした。帰り際にもらったポストカードには「歴史とは過去ではなく、現在。我々こそが歴史」との言葉。約70年前の第二次世界大戦と現在のドイツとの連続性、来館者の主観に委ねる過去の解釈。「情報は集めた。あとは君たちで考えてね」と宿題を出された気分になる。ここに博物館の役割を見た気がし、日本人の僕にとってそれがとても新鮮だった。

裏面にはAdmission Freeとある