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ルワンダ・キガリの内戦跡地を巡る

先日ルワンダの首都キガリの内戦の跡地を一日かけて巡った。

ジェノサイドメモリアル(虐殺記念館)


まず向かったのはジェノサイドメモリアル。ガイドブックやブログで紹介されているルワンダ内戦関連で最も?有名な博物館。キガリ市内のホテルからタクシーで15ドル。入館料は無料。音声ガイドは20,00RWF(約200円)で日本語も選ぶことができた。クレジットカードでの支払いが可能。待ち時間はなかったが人は多い。カフェ、ギフトショップもある。記念館の周りは庭園になっている。もしかしたらハカランダの木もあったかもしれない。

多数派のフツ族から少数派のツチ族に対する虐殺と聞いていたが、穏健派のフツ族も多数殺されていたらしい。音声ガイド曰く犠牲者は200万人。しかし当時の人口を鑑みて多くとも100万人とする見方もあるらしい。共同墓地の石碑に刻まれる犠牲者の名前は今も増え続けているらしく、正確な数はわからないのかもしれない。

この記念館では、植民地時代からスタートして、ツチ族とフツ族の分断がどのように形成されたのか、内戦がどのように拡大したのかが順を追って展示されている。ツチ族とフツ族は所有する牛の数や、身長、鼻の長さで区分されたらしく、鼻の長さを測る器具の写真もあった。1994年にフツ族出身のルワンダ大統領と隣国ブルンジ大統領を乗せた飛行機がミサイル攻撃により撃墜されたことをきっかけに、フツ族(ルワンダ政府)によるツチ族への攻撃が始まる。

国中に虐殺が伝播したため、あらかじめ虐殺が計画されたいたとの見方もあるようだが、国民が武装したわけではなく、棍棒やナタ、スキなどの農機具などが殺傷に使われたらしい。これは大量の人間を確実に早く殺傷する方法ではない。教会が安全だと逃げ込んだ人々に対し、神父が主導して殺害を行なったケースもあったらしい。これはツチ族を排斥する必要性を大多数の国民が信じて疑わない状態がない限り起こりえなかったことであり、過激派のフツ族による新聞やラジオでのプロパガンダが機能したことを示している。内戦の開始をきっかけに親交のあったフツ族の隣人に突如襲われたというツチ族出身者のインタビューや、被害者の写真や大量の頭蓋骨も展示されており、かなり重たい内容になっている。

気になったのは、内戦の開始に至るまでの経済的な要因につい手はほとんど展示がなかった。1994年以前にも、反政府組織でツチ族からなるルワンダ愛国戦線(RPF)の脅威が増すにつれ、ルワンダ政府は軍事費の支出増を余儀なくされていた。これが国民の生活を困窮させ、内戦へと至る一要因になったとは考えられらないだろうか。ドイツでは第一次世界大戦での巨額な賠償金により国民が困窮し、失業率の増加がヒトラーを当選させる一因となり、これがホロコーストにつながった。経済的な要因を裏付ける統計やグラフの展示はなかった。

2020年に訪れたナチスの博物館の展示はこの意味で客観性があった。
www.goodnalife.com

Campaign Against Genocide Museum


続いて向かったのはルワンダ議会上院(senate)の敷地内にある別の博物館。こちらは虐殺記念館に比べてかなり空いており、週末だったが館内には別の観光客一組しかいなかった。一般者用の入り口に行かなければならず、一度車を降りて持ち物検査もされる。入館料は英語のガイド付きで80,000RWF(約800円)。荷物はロッカーに預けないといけない。館内の展示は撮影不可だが、屋上や屋外のモニュメントは撮影可能。一応ギフトショップもある。全体的に館内の照明が暗く、展示の文字が読みにくいのでそこは改善してほしい。

ジェノサイドメモリアル(虐殺記念館)は内戦に至るまでの経緯や被害者に焦点を当てている一方、こちらの博物館は内戦の終結と回復に焦点を当てたものになっている。ルワンダ政府に対抗するため、北部から首都キガリに進行したルワンダ愛国戦線(RPF)の4つの部隊の配置、旧アマホロスタジアムでの負傷者の手当て、タンザニア・アルーシャでの合意の締結、ルワンダ政府内の過激派の南西部やコンゴ民付近への敗走などの経緯が展示されている。

ということは「今もコンゴ民国境近くには過激派のフツ族がいるのか、だから治安がよくないのか」とガイドさんに尋ねると「それは政治的な話題だから答えられない」と言われた。

展示の終盤にはホテルルワンダの話も出てきた。ホテルがツチ族の避難先になったことは確かであるが、支配人は資金をもらって協力したに過ぎず、その後にテロ行為を企てたとして逮捕されている。「映画は真実ではない」とガイドさんにはっきりと言われた。自分もルワンダを訪れる前にこの映画を見たが、どうやら現地の方の評価は違うらしい。

展示のある1階から屋上に上がるエレベータの近くにルワンダ内戦を描いたドキュメンタリーの看板があった。この国会議事堂が舞台になっているらしい。日本のAmazon Primeからだと視聴できなかった。
www.theeastafrican.co.ke



屋上からはRPFがキガリ中心部に向けて進行する拠点になったRebero山、Kigari山を見通すことができる。キガリはこのような丸々とした山に囲まれている。まだ自分にはこの地域の丘(hill)と山(mountain)の違いがよくわからない。屋上からは、博物館の建物の側面に生々しく残った銃弾の痕を見ることができる。

かなり空いているからゆっくり見れるのと、ガイドさんが丁寧に説明してくれるので、おすすめの博物館。内戦前はルワンダ国民のIDカードには属する民族名が書かれていたとジェノサイドメモリアルの展示で見たが、今は皆同じルワンダ人なので民族の違いはないとのことだった。

Belgian Peacekeepers Memorial



最後に訪れたのが。入館料は無料。寄付用のボックスがある。国連平和維持軍のベルギー兵士10名が内戦開始初日に殺された場所。建物の外壁の銃痕は大きく、至近距離から撃たれたことが分かる。手榴弾が炸裂した部屋には血痕?も残っている。ベルギーはルワンダにとっては植民地の宗主国の印象しかなかったが、PKOの主力がベルギー軍であったことから、独立後もルワンダに関与があったらしい。ルワンダ内戦は国連の不介入により長期化してしまったとも指摘されている。国連がルワンダで虐殺(ジェノサイド)が起こっていることを認めてしまえば関与せざるを得なくなるため、虐殺だと認めなかった。ちなみに虐殺という言葉自体がユダヤ人のホロコーストの裁判を担当した法律家により作られた造語であり、このあたりの経緯はNHKの番組を併せて見ることで理解が深まった。

www.nhk-ondemand.jp