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『斗南藩ー「朝敵」会津藩士たちの苦難と再起』

2019年に勧められてkindleで購入しておりようやく読み終わった。あとがきまで読んで筆者がこれを書いた思いがよくわかった。『竜馬がゆく』は西側から観た明治維新であり、東側(会津)から見ると戊辰戦争になる

はじめに

会津人を救ったのは、皮肉にも廃藩置県だった。藩が消滅し、移住の自由が認められた斗南の会津人は、郷里の会津若松に戻ったのをはじめ、東京、北海道などに新天地を求めて移住し、東大総長山川健次郎、イギリス大使林権助、陸軍大臣畑俊六、大物フィクサーとして活躍した田中清玄ら多彩な人材を生んだ

第三章 移住者の群れ

廃藩置県があり、各自は好きなところに行けるようになった

こうした回想録を読むと、会津藩の知的水準はきわめて高いものであることがわかる。  また福沢諭吉が積極的に会津の青年を慶應義塾に受け入れ、勉学の機会を与えていたこともわかる。今でも会津若松には曽祖父、祖父、父、本人と一家四代が、慶應義塾に学んだ酒の蔵元もある。

第四章 斗南の政治と行政

薩摩に捕らわれた広沢が生き長らえたのは、イギリス公使館書記官アーネスト・サトウの口利きがあったからともいわれている。

第五章 会津のゲダカ

鳥羽伏見の戦いのあと、会津藩は兵制を改革し、白虎、朱雀、青龍、玄武の四隊に再編制しており、発想の基本に中国の学問があったことは事実である。

第六章 廃藩置県

一人、廃藩置県に反対したのは薩摩の最高実力者島津久光だった。明治維新を成し遂げたのは長州と薩摩ではないか。その薩摩藩をつぶすとは何事か。久光は怒り狂った。賢い西郷は雲隠れし、久光との接触を避けていた。

第八章 斗南に残った人々

草の根を掘り起こし、木皮を剥いで、粟や稗に混ぜて食べる悪食のため胃病が蔓延していた。

第九章 北の海を渡った人々

会津藩には山川のほかに田中茂手木、横山常守、海老名郡治の四人のヨーロッパ研修生がおり、新潟には田中が来ていて、たくみな外国語で通訳にあたっていた。しかし、個人プレイのスネル兄弟には限界があった。薩長の背後には、イギリス公使館、イギリス海軍、グラバー商会がついており、その差はあまりにも大きすぎた。

当時の余市はアカダモ、ヤナギの巨木が鬱蒼と生い茂り、ヨシやスゲ、クマザサ、トクサなどが密生する余市川の岸部だった。

この間、小樽人板垣文蔵の牧場開発、網元の農園経営、余市林檎酒株式会社の発足、東北帝国大学農科大学(のちの北大農学部)付属果樹園の誘致、大日本果汁株式会社(のちのニッカウヰスキー)の進出などで、余市は今日の発展を見るに至った。その先鞭をつけたのが、旧会津藩士だった。

あとがき

ここで明確になったことは、意識の上で日本列島が東西二つで分断されていることである。明治維新百五十年にせよ戊辰戦争百五十年にせよ、列島分断の行事が進行している。政治家たちはこの問題に関してあまりにも鈍感である。