平田オリザの『名著入門』で紹介されていたことをきっかけに、いつか読みたいと思っていた一冊。先日読んだ堀辰雄の作品と同じく、舞台は長野。堀辰雄が都会と自然の対比を描いていたのに対し、『破戒』では地方社会の空気感と人間関係が濃密に描かれている。当時の文豪にとって、長野という土地が創作の源泉になっていたのかもしれない。もっと周辺の地理に詳しければ、情景がさらに鮮明に浮かんだはず。
初版は1906年と100年以上前の作品であるにも関わらず、文体が読みやすく、人物たちが生き生きと動いている。
この作品が画期的であるのは部落差別という社会問題を扱った点だが、それ以上に心を動かされるのは、親から託された掟とそれを守ろうとする主人公の葛藤。自らの出自を隠し、苦しみ、誰にも語ることができない心の揺れ動き、内面の機微が、ここまで丁寧に描かれていることに驚かされる。この小説が世に出たことで、人々は「心」を語るための言葉を手に入れたのではないか。言葉にできなかった心を言葉にして出力する術を与えてくれる、この意味で文学は人を自由にしてきたのかとそんなことを思わされた。『日本文学盛衰史』で言われていることが少しわかった気になる。
ふと自分の毎日を振り返ると、SNS、Webページ、生成AIに毎日の大半の時間を費やしている。膨大な情報に囲まれて過ごしているが、果たして自分を自由にしてくれるような表現手段と出会えているのだろうか。
自分の内面を言語化するという意味で、これらのテクノロジーは私たちを自由にしてくれるのか。便利になっているようで、様式の固定された不自由を私たちは甘んじて享受しているだけではないか。