解説を読んでよく分かったが、作者のアンドロイドという隠喩は機械的な行動パターンに侵された人間ー模造的な人間であり、作者が問題としていたのは人間と機械の双方における「人間性」と「アンドロイド性」の対立の構図だった。
人間を人間たらしめている一つの要素が「感情移入能力」であり、マーサー教の件が繰り返し描かれるように、他者と繋がる、救いを求めるという欲求を持っている。もう一つは生への執念。諦めの悪さ。
古典的な諦念。こうした機械的で知的な運命の受容は、本物の人間ー二十億光年の生存競争と進化をくぐり抜けてきた種族ーにはとうていまねできないものだ。
「おれにはきみたちアンドロイドのそのあきらめのよさががまんできない」
個の時代、そしてコスパ、タイパなど無駄を許容できなくなるような社会の風潮は人間のアンドロイド性を加速させる。
SFはテクノロジーではなく人間を描くもの。AIの研究者が人間を理解しようとしているのと同じ。