今年も残り2ヶ月になってから、果たして今年が終わるとき、どういう本を読み終えていたいか、などと急に考え出した。人生で読める本は限られている。さて何を読もうかと悠長なことを言っていると何も読まないまま1年が終わってしまう。人に勧められるか、何かしら必要に迫られるか、偶然古本屋で出会うか、出会い方は何であれ、読もうか読まないか迷ったら読む、読んでみてつまらなければ止める、と言った具合にどんどんと手に取っていきたい。
小説・エッセイ
藤原正彦(1981)「数学者の言葉では」
3月中頃、どうにも仕事が苦しい時期だった。何か気晴らしをしようと初めて立ち寄った古本屋で本の方から語りかけてくるように目に止まった。
著者がコロラド大で会った学生ハナの気持ちは痛いほど分かる。研究や仕事のために自分のプライベートを捨てるたび、何かを失う感じがする。これほど犠牲を払わなければならないのかと、達成感よりも喪失感が上回ってしまう。でもその厳しさを選んだのは自分。自分で選んだのにいざそれに直面するとそれから逃げ出したくなる。彼女は敬虔なシスターだった。もしかすると完璧主義な部分があり、数学に重きを置き過ぎる生活というより自らが時間を管理できないことが我慢なからなかったのかもしれない。
ハナ側だけではない。教授側の思いも分かる。厳しい意見を言う人の心にも、弱い部分があり、それを欺きながら、人知れず泣きながら過ごしている。そこに情で訴えてはいけない。自分で乗り越えなければいけない。
自分はどちらかというと情操的魅力を使って生きている気がする。生きてきた、というより、逃げてきた、と言うべきかもしれない。相手に有無を言わさないような迫力のある、専門的魅力はないだろう。
みんな辛さを抱えて生きていることがどうも見えにくい。評価や指導をする側も、される側も、心で泣きながら仕事をしている。スキルや能力ではなく、このどうしても蓋を出来ず、逃げられない感情が言葉にされていたことが、自分にとっての救いだった。
そしてもう一つこの本から得たことは、どんなに仕事の進みが遅くても、文章は書いていれば終わりに向かうということ。ひらめきが必要な数学との違い。ある時点を境にして景色が開けるのではなく、どんどんと暗闇が空けていく。だから仕事が進まない時、この考え方を頼りにしたいと思う
新田次郎(1981)『劒岳〈点の記〉』
昔から存在は知ってたが読んでなかった本。八ヶ岳のガイドの方に教えてもらった。先に映画を見て一気に原作も読んだ。一度立山に登ったからイメージが湧いた。
新田次郎はまだ中高生の時に八甲田山を読んで以来。
ネクストアクションは、とりあえず劒岳に登ること、修験道を体験するツアーに参加すること、もう一度八ヶ岳に行くこと。
修験道は真言密教からきたもので一般に布教されるものではなく師の口から弟子の耳へ、伝えられていくもの
針の木峠近くの地盤が弱く、洪水が起こるのは佐々木成政の家来たちの怨念のなせる業だと言われる
太陽はまさに海に沈もうとしていた。太陽と彼を結ぶ海上に黄金色の道が輝いていた。
山口耀久(2008)『北八ッ彷徨:随想八ヶ岳』
6月に八ヶ岳を訪れた際、『剱岳 点の記』と一緒にガイドの方に勧められた本。剱岳はすぐ読み終わったが、なかなかこちらは読み進められなかったが、沖縄への行き帰りの飛行機と宿で読んだ。家でスマホが手元にあると、どうしても読書に集中できず、ページが進まない。他にすることがない状況を作ることで、自分の脳や体が読書に向いた状態になり、自然とページがめくられる。読めない時に無理に読もうとしても消化できない。この本は特に、著者の世界観に没入しないと、文字をただ追うだけになってしまう。
実際に北八ヶ岳の白駒池や雨池近くを歩いたことで、ササを掻き分けて歩いていく著者の様子がイメージできた。徐々に道路や小屋が整備されることで、聖地が荒らされることに対する懸念を何度も何度も吐露している。目的地やルートの決まった登山ではなく、遊び場として、秘密基地としての魅力が描かれている。
後半の病気療養の件からは、文章がより明確な輪郭を持ってソリッドになった気がした。困難や苦痛が人の感性を研ぎ澄ませ、それが文章に滲み出ているのではないか。
司馬遼太郎(1987)『菜の花の沖』(一)〜(六)
淡路島から兵庫、そして函館、ロシアへと空間的な移動を楽しめる。技術革新を抑制し鎖国を続けた幕府。神戸海洋科学館で北前船や弁財船の模型を見に行ったが、他国の軍艦と比べていかに貧相なものだったかを思い知らされた。
自伝・伝記
ウォルター・アイザックソン(2023) 『イーロン・マスク』(上)(下)
年末年始の移動時間に読了。
ここまで度が過ぎた人がなかなかいないと思うが、シュラバ、本気、気が狂いそうな切迫感を好む、つまり無理な目標を設定してそれに皆で邁進することが好きな人の気持ちが少しわかるようになる。暇になると何をしてよいか分からなくなるから。巻き込まれる方は相当辛い。トラウマになる。辛いけど巻き込んでくれる人がいるおかげで熱中することができる。
怖いもの見たさで飛び込んでみたい気もするが、1週間も持たない気がする。
行動を先延ばしにしてしまう人にとっては劇薬になる本。
藤永茂(2021)『ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者』
映画の予習用に読了。これを読まなければ全然話がわからなかったと思う。自分の才能の使い道や親密な人間関係へのコミットの仕方に揺れ動くオッペンハイマーと、一本筋の通ったキャシー。浮遊する主人公とそれを定点から観察する妻、という構図があるのかなと感じた。そして生み出したものに責任を取れと詰められる。妻にも。世論にも。
著者が冒頭に書いている通り、オッペンハイマーに責任を転嫁しようとするずるい人類がいる。ファシズムとの戦いという目的を与えられ、それに邁進しただけとも言える。技術者が一同に会し、休みもないまま開発に取り組む様子には爽やかささえ感じる。見えないファシズムという敵に向かって団結したことの結晶が原子爆弾だった。後の時代に生まれた自分たちが、原子爆弾投下後の惨状を取り上げて、彼らだけを批判することもおかしい。歴史の産物。
映画を観終わってしばらくしてから、98歳の著者がブログを書いておられることを知った。
もともと鍛錬には、精神を、やや重要でない目的に服従させる面があり、鍛錬がわざとらしいものにならないためには、その目指す所が現実的なものでなければならない。
1939年、ボーア=ホイーラーの論文の出版後、急速に減少し、やがて全く姿を消した。軍事的な秘密の幕が下されたのである。
シラードのアインシュタインの第一回訪問(1939年7月)の目的は、当時のベルギー領コンゴのウラン資源がヒトラーの手に落ちるのを防ぐことにあった
サンフランシスコ市の北部にあるユニークな科学博物館「エクスプロラトリアム」はフランク・オッペンハイマーの創造
オッペンハイマー案の中心的な考え方は、まず原料核物質の採鉱、精錬を監視する国際機関である原子開発機関(Atomic Development Agency)を設けて、核分裂物質の危険な使用つまり核兵器の製造をその根源で監視し、次に加工変容した安全な核物質の使用(研究、医療、小規模原子力発電など)は国際管理から外して各国の自由に任せる、というものであった
アメリカの提案は国際協力による原子力の管理によって世界平和を樹立するという理念から全面的に後退し、原爆を振りかざしてアメリカが世界に強要する平和(Pax Atomica, Pax Americana)の提案以外の何物でもなくなった
副大統領としてほとんど事態を知らされていなかったトルーマンは、1945年4月12日にローズヴェルト大統領が突然死去した時初めて原爆のことを詳しく知らされ、その3ヶ月後には、大統領として日本に対する原爆投下の決定を下さねばならなかった
アレックス・オノルド(2016) 『アローン・オン・ザ・ウォール』
Instagramでフォローしていた旅人が紹介していた本。天才的なクライマーの自伝。自分がクライミングをやっていたらより楽しめたのだろうなと思う。
著者は冒頭で、父親を亡くしたことで人生を精一杯生きるためには今を楽しむことが重要だと悟ったと書いている。自分も今年は周りに不幸が相次いだので、その実感は強まった。
先週、中国・西安の兵馬俑を訪れたが、現地のガイドの方が当時は始皇帝を含め現世よりも死後の世界に重きを置いていたと話していた。だからこそ自らの墓の立地にこだわり、莫大な労働力を動員して墓を守るための埴輪を作った。始皇帝は13歳で即位したときから墓の建設のプランを持っていたらしい。国や各人の宗教観による違いはあるだろうが、より現世に重きを置く世界へと歴史は道をたどり、そのタイムステップが徐々に短くなっているのだと思う。言い換えると、即物的な、唯物的な見方が強まりすぎて、死後の世界への想像力が失われてきているのかもしれない。今のところそこまで必要ないとは思っているが。
以下、印象に残った箇所
- 登山家のマークトュワイトはクライミングを自殺を未然に防ぐ手段だと呼んだ
- ボルネオ島の最高峰キナバル山(4,095m)は熱帯雨林からそそり立つ巨大な一枚の花崗岩。今日も未踏の岸壁が残っている
- マークがエネディ砂漠を見つけたのは衛星写真に目を凝らしていたときだった。カメルーンに遠征した時に北東に接するチャドでクライミングができないかと思いついた
- なぜ遊牧民は砂漠の中を正確に移動できるのか。井戸に辿り着けなければ脱水症状を起こしてしまう。遊牧民は太陽と風向きで方向を知ることできる
- 多くの人、特にアメリカ人は「キャンプに行く」ことを素晴らしいことだと考えているが、キャンプ生活にとりわけ魅力を感じるのは普段キャンプをしない人たちではないか
- フリーソロをする時の不思議なパラドックス。不安になるのは実行に移す前の時間のほうで、「本当にやるのか」と自問し続ける。しかし、覚悟が決まればその不安は消し飛んでしまう
- フィッツ・ロイは南パタゴニアに聳え立つ花崗岩の最高峰で、ロバート・フィッツロイ艦長が1830年代にビーグル号で成し遂げた有名な航海は、同行したチャールズ・ダーウィンが進化論を提唱するきっかけとなった
- 死をもたらすのは高難易度のクライミングでもなくフリーソロでもない。命を奪う危険性があるのは何度となく繰り返しているやさしいクライミングなのだ
文学・ノンフィクション
石川直樹(2018)『極北へ』
いつでも読み始められる。そして止められる。
気温や体温、暗さ、孤独さ、そういった過酷な環境の体験記であることに違いはないが、文章が清潔で、誇張がなく、頭でっかちな感じがない。淡々としているけれど、人温かみを感じる。
そういえば新卒の就職活動のとき、面接で「良い文章の条件を3つ答えて」という即興的な質問を受けた。その時は仲の良い先輩の書いたブログの記事を引き合いに出して答えたけれど、今なら上のような答えになるかもしれない。清潔さを説明するならば、英語にして人に伝えられそうな感じ、と言えるかもしれない。ある意味でスタンダード、個人的な経験を幅広く共有できるレベルにまで抽象化したもの。
「単独飛行」を読んだ時も似たような読後感を覚えた。
そして写真と文章だからこそ、脳内にイメージが広がる感じが心地良い。これが映像だったら、もちろん情報量は多いと思うが、視覚と時間を固定されてしまって、もっと自由に空想を楽しみたいけど楽しめない、みたいな状態になっていたかもしれない。
ヘレナ・ノーバーグ=ホッジ(2021)『懐かしい未来』
情報と経験を行き来する
今年の5月、インドのラダックを訪れた。自分にとってチベット文化の国。ヒマラヤ山脈とインダス川の上流に囲まれたトレッキングと、ルンバク村でのホームステイ。トレッキング前後でお世話になったNyamshan houseの池田さんに教えてもらって読み始めた。グローバル化の波にさらされて失われつつあるラダックの伝統的な暮らしと、それに抗うローカリゼーションという対応策。たかが4日ではあるが、現地を歩き、ガイドの方と話、そして標高や日射による身体的な厳しさを味わった後なので、ラダックがどんなものだったかが脳や身体に残っている。経験ありきで理解できる本だと思った。
学生時代に開発や途上国についての本を読んできたつもりではいたが、自分に残っていない。それは経験が足りてない。大学を出てから10年経ち、コミュニケーション能力がついて、自分の経験を言語化できるようになった。少し英語力がついたこともある。
自分は身勝手な旅行者なのだろうか
この本によると、インド政府が観光を目的にラダックを外国人に開放し始めたのが1974年。インド軍が実行支配していたが、領土を明確にする意図があった。同時に集中的な開発が進んだ。数年前にようやくインダス川の4MWの水力ダムが完成し、24時間電気が使えるようになったと聞いた。もちろんまだ送電網が来ていないリモートの村も多くあるらしい。発電だけではなく、外貨獲得が確実な観光も開発計画の中心。旅行者用の建物が増え、物質的な文化に影響をもたらす。
自分は一時的な訪問者として景色や文化を楽しみつつ、彼らの文化を壊すことに加担しているのかもしれない。例えばチップ。タンザニアのキリマンジャロに登ったときもそうだったが、現地の人の標準的な日給よりも多く挙げてしまう。比べるものが日本の日給・人件費しかないから。これも金銭の機能を過度に信用する考え方を伝播させてしまっている。でもお金は感謝のやりとりだという解釈もできる。
本書で紹介されていて、次に読んで見たいと思ったもの
- 『白人天国-アフリカ人の地獄か』(第三世界出身の著者が西洋の生活様式のイメージと実態の乖離を書いたもの)
- 『忘れられた日本人』(日本の伝統智について)
宮本常一(1984)『忘れられた日本人』
古書店で文庫本を買った。
初刊は1960年。64年前。本の中では100年前の暮らしについて語る人々の話が出てくる。時代と人が急速に変わっている、と感じる。
- 美味しくはないのだろうが、ヒエや菜飯は食べたことがない。どこかで食べる機会はないか。普通は2年分の米を蓄え、新米ができると去年のものを食べ始めることで飢饉に備えていた。
- 対馬から朝鮮に人参を買いに行くのに、朝鮮人のふりをして対馬の役人の目をくぐっていた。筆者と同時期に会津で育った蓮沼門三の自伝にも当時の暮らしについて書かれている。
- 日清戦争後に日本が台湾を領土にしたため、仕事を得るのにキールン経由で台北に大工が渡った。その後釜山や仁川にも仕事があった。
- 文字を使って伝承する人は外部からの刺激に人間であった。文字によって比較の概念を得る。
- 明治末(1910年頃)には油売りが現実にいた。髪に付ける椿油、神社の灯用の種油を桶にいれ、天秤棒を担いで売った。買い手の持つ小瓶に漏斗を差し、灼から油が一滴でも多く落ちるのを待つのどかな風景と、油を売る=なまけるという意味が一体になっている。
現代は人類史上初めて無名の人々の生き方や考え方がSNSやブログの形で集約されているのかもしれない。記録で溢れかえっている。アウトプットの仕方も様々。
イザベラ・バード (著), 時岡 敬子 (翻訳)(2008)『イザベラ・バードの日本紀行』(上・下)
明治維新最中の1878年に横浜から北海道まで旅した英国人の旅行記。人の多さ、カオス、喧騒、野蛮で未開、姿勢や歩き方の悪さ、変な髪型、悪臭を伴う漬物、粗末な衣類、衣類の代用品であった刺青などなど、日本人に対する忌憚ない感想がつらつらと続く。ぼったくられてから交渉を始める買い物の仕方、ラベルを偽造した商品、商品経済の黎明期だった頃の日本。
今年の夏にインドのデリーを訪れ、人の多さ、活気、騒々しさに辟易したが、きっとかつての日本もこういう雰囲気だったのではないかと想像できた。日本人もインド人のようなメンタリティだったのではないか。
ほかにも北海道のアイヌとの交流、北海道・有珠の景色の描写は良かった。
少し気になったのは文章のリズムがあまり自分と相性がよくなかった。写実的な描写は素晴らしいと思う一方、ストーリーがなく、ところどころ冗長さ、読みにくさも感じた。司馬遼太郎の歴史小説がいかに読みやすいかを感じた。
社会・政治
堀 栄三(1996)『大本営参謀の情報戦記』
同じ職場の人が読んでいて気になり購入した。
太平洋戦争中の日本軍の戦略的失敗を、諜報活動の視点から描いた体験記。著者は大本営に所属し、戦争の始まりから終戦までの参謀の仕事を記録している。同じく日本軍の失敗を組織を切り口に扱った「失敗の本質」と読むとより理解が深まるのではないか。
誤った大戦果情報
印象深いのは、第一線の日本軍がしばしばエビデンスのないまま戦果を過大評価して報告していたこと。つまり味方の情報が信じられなかった。米軍のように戦果確認機を出して写真撮影を行うことがなかった。さらに日本軍は陸軍と海軍がお互いに連絡することなく、勝手に戦果を報告し合い、二つの大本営があるかのように機能していた。
対米情報活動の軽視
また対米国の情報収集が不足していた。戦前の陸軍は対ソ連、対中国向けの諜報活動を重視し、満州やシベリアでの陸戦を想定していたため、米国の動きを読めず、ニューギニア、ソロモン諸島では正確な地図も用意できないまま、ガリ版刷りの地図で戦っていた。米国本土の産業状況も不足しており、原子爆弾の開発情報は一切掴めていなかった。
飛び石の思想
日本と米国は太平洋の島々に異なる戦略的見解を持っていた。日本軍は近くに米軍が出現した時に航空母艦代わりに爆撃機や雷撃機を進出させるために、米軍は制空空域を占拠するため。実際に小笠原諸島を含めて日本が守備隊を設置したのが25の島、米軍が実際に上陸したのは8つであり、残りの17の島は放ったらかしにされた。補給路の絶たれた島で餓死することが見えていたため。
古舘恒介(2021)『エネルギーを巡る旅』
これまでに読んだエネルギー関連の一般書の中で一番面白かった。歴史を通じて人間がエネルギーをどのように利用してきたか俯瞰的な視点を得られる。2章を読むと頑張って熱力学を勉強しようという気持ちになる
火のエネルギー
人間は咀嚼や加熱など料理を行うことで、エネルギー密度の高い食事を取れるようになり、食べる量が減り、脳を大きくし、消化器官を小さくすることができた。
森林のエネルギー
日本では飛鳥時代から奈良時代にかけて約200年のうちに20回の遷都が行われ、建築需要により畿内の自然林が消え、アカマツの森に変容してしまった。
英国は国内の森林資源を急速に消耗するが、入植を開始したアメリカ北東部ニューイングランド地方では帆柱に最適なストローブマツの巨木の森を確保でき、英国海軍の軍事的優位を確立するに至る。
産業革命とエネルギー
- 英国の工業化により、奴隷制が破壊された。カリブ海のイギリス植民地にある砂糖プランテーション経営者「西インド諸島派」と呼ばれる圧力団体を組織して英国議会に働きかけ、関税をかけ英国内の砂糖を高値に設定していた。「マンチェスター派」は宗教界と連携して奴隷制に反対し、西インド諸島派を弱らせる。
- 蒸気機関は熱エネルギーを取り出す場所と消費する場所が同一である必要があった。電気の利用はエネルギー変換の自由に加え、場の制約からの解放をもたらす力だった。
肥料とエネルギー
- グアノはケチュア語で糞の意味であり、インカのケチュア族はグアノを畑に撒くとトウモロコシの収量が増えることを知っていた。インカ時代はグアノが取れる島には検査官が置かれ、鳥を殺すことは禁じられた。米国は1856年にグアノ島法を成立させ、どの国にも所属していない島100近くを自国の領土にし、ミッドウェイ諸島も含まれる。
- チリ硝石はそのままでも爆薬の原料になるが、NaとKに入れ替え、より反応性の高い硝石(硝酸カリウム)を化学合成する技術が開発され爆薬としての価値が上がった。
- 窒素は二酸化炭素と比べて水に溶けにくく、反応性も低いため、40億年前に海洋が現れたときから大気中に残り続けた。生物の光合成に使われることがなかった。
- 雷が発生すると放電エネルギーで窒素分子の三重結合が解け、雨に溶けて地上に降り注ぐことで植物は窒素を取り込むことができる。雷は大和言葉で稲妻。
- 窒素を動植物が固定化する方法は、一部の豆科の植物に共生する菌か、雷のエネルギーによる分離だけだった。それをエネルギーを大量投下して窒素を固定化することで人類と人類の食料となったトウモロコシ、小麦、米などの穀物の総量が増大した。
- C4型光合成(最初の有機化合物に含まれる炭素の数)であるトウモロコシは、単位面積あたりの成長のスピードが早く、収量が多くなる。
- 米国の2019年のトウモロコシ生産量データでは、国内消費の45%が家畜の飼料用、34%がバイオエタノールの燃料用、11%がコーンスターチやコーンシロップなどの工業用、食料利用は10%程度。バイオエタノールはEnergy Profit Rateが0.8程度で、製造のために投入されるエネルギーが得られるエネルギーを上回る。
エネルギー問題の哲学
- 人間の歴史は「時間を短縮すること」言い換えると「時間を早回しにすること」に価値を見出してきた。人類の価値基準が以下に頭脳偏重になっていたかの裏返しでもある
エネルギー問題と経済学の相性
- 一般の経済活動を行う経済学と相性が悪い。エネルギーのもつ経済的価値を正確に測ることが難しかったため。蒸気機関の能力を測る手法がなかったため、ワットは馬力(標準的な荷役馬が単位時間あたりに行う仕事の量)を考案した。これが現在の国際単位系SIになった。
資本という神
- 中世までに成立した宗教の多くは自然界のくびきを感じていたからこそ、来世に希望を見出すことでバランスを取ろうとした。
スペシャリティコーヒーの経済学
本屋で手に取って購入。経済学というよりコーヒーのサプライチェーンの実態についての本。
次にコーヒー農園を訪れる時の質問をこの本をベースにして考える。
自己啓発
谷川嘉浩(2024)『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』
- 偏愛はあまりに個人的なので簡単には他の人の興味を誘えるものではない、それなのにSNSは逆方向へ私たちを導こうとする
- ドストエフスキー「地下鉄の手記」。紅茶と世界の存亡を天秤にかけられることは、これさえ譲らなければ他はどうだっていいと言える根拠地を持っている人の自由さ、爽やかさ、泰然自若とした姿勢。
- キャリアデザインを支えているのはコントロール願望。仕事観や価値観を確固たるものとして確立し、自分をブレないものにすることを重要視する設計的な考え方。自分の決定に自分自身が驚く可能性を考慮しない
- 自分は多孔的であり他者からの影響を避けられないという立場に立ち、影響を受けやすい自分をどう乗りこなすかを考える。いいと思われるもの=善なるものを自分の内側に引き入れる努力をする
- 現代人の抱きやすい寂しさは私たちを抽象性や交換可能性に導く。寂しさが導く生き方のレールを外れた先にあるのが衝動が導く生き方であり、一定の手順を踏んで言語化しないと現出しない幽霊のようなルートになる
一点目はまさにそうだと思う。やりたいことを見つけたいと思いつつ、他人から見て見栄えが良く真っ当なやった方がいいこと、を見つけないといけないという変なプレッシャーに苛まれている気がする。
映画
『PERFECT DAYS』ヴィム・ヴェンダース(2023)
3月に映画館で鑑賞。公開からだいぶ時間が経ってしまった。期待通り、観終わった後は爽やかな気分になった。おそらく育ちも良く、サラリーマンとしてそこそこの結果を出してきたと思われる平山さん。清貧と言う言葉をそのまま映像にした感じがした。あと平山さんは現金を使う。スマホは使わない。明るいスクリーンや通知のプッシュ音はあの生活にはそぐわない。今の東京にもああいう生活は残っているのだろうか。
『オッペンハイマー/Oppenheimer』クリストファー・ノーラン(2023)
4月に映画館で鑑賞。時に科学者の使命や圧力に苛まれ、現実逃避をしてしまう揺れ動くロバートと、筋の通った姿勢を貫きキャシーの関係が強烈に対比されていた。確か原作にもロバートが賞を授賞する時に礼をしなかった彼女の写真が載っていた。日本への原子爆弾投下を示唆するシーンは一瞬だけ。光の中で黒い体の皮膚がペリっと剥がれる。派手に表現しようとすればできたのだろうが、あえてシンプルな表現にしたのではないか。キリアンマーフィーはインターステラーの時とは別人に見える。
『アルゴ/ARGO』ベン・アフレック(2012)
おすすめされたので飛行機の機内で観た。大学生時に一度観た気がするがすっかり中身を忘れていた。この1979年の大使館事件の後、いまだにイランとアメリカは国交を断絶している。カナダ大使館に匿われたアメリカ大使館の職員が架空の映画撮影のロケハンを装って脱出しようとするが、その架空の映画のタイトルがアルゴだった。
『剱岳 点の記』木村大作(2009)
手旗信号で山岳会から陸軍測量隊に称賛を送るシーンなど、原作と比べてやや誇張されたシーンもあったがいい映画だった。原作を読んだ時に思ったがやはり一度立山に行ったからこそイメージできる部分は大きいと思う。
『ディア・ハンター』マイケル・チミノ(1978)
8月にPrime Videoで400円でレンタル。ギター工房でテーマ曲の演奏を聴き、気に入って映画も観てみた。これもデニーロが出てる。この人が画面にいるだけで画がしまる、というか映像が映画になる。これぞ俳優なんだとようやくわかってきた。ベトナムから帰国しても軍服を着続け故郷に馴染めないマイケル、社会復帰できないスティーブ。陽気な若者が心身を病んでいく様子が痛々しい。ベトナム戦争系の映画も一通り見ておいた方がいいなと思った。
『メメント』クリストファー・ノーラン(2000)
PrimeVideoで視聴。かなり理解するのが難しかった。派手なアクションがない分、TENETにも通ずる時間の逆再生を表現する脚本の緻密さを堪能することができる。
『ナイロビの蜂/Constant Gardener』フェルナンド・メイレレス(2005)
11月にPrimeVideoで400円でレンタル。これもアフリカでの経験が長い方からお勧めされたもの。物語の終盤でセスナから見えるトュルカナ湖の景色は圧巻。ケニアの国立公園らしいのでぜひ行ってみたい。
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