2月に青年団の「日本文学盛衰史」を観に行き、その原作と平田オリザの書籍を読んだ。青年団の劇は「カガクするココロ」、「熱海殺人事件」に続いて3回目。本当にいいものを観た。
これは明治維新以降の日本の近代文学、文豪たちを生き返らせたもの。当時と現代が入り混じる仮想的な空間で、時代に翻弄されながら、新たな表現方法を獲得しようとする作家たちが何人も何人も出てくる。
終盤には生成系AIに話題にも触れ、クリエイターとしての文学者やその作品の価値がなくなっていくことへの業界人としての懸念と、別の宇宙で新たなクリエイターが生まれる(「もう一人の夏目漱石が宇宙で生まれる」)というセリフで一気に抽象度が上がり、心が揺さぶられた。
まずは高橋源一郎による原作。
明治時代の日本人は自らの内面を記述する言葉を持たなかった。使う言葉も語法もワンパターンで、書く本人が本当にこんなことを思っているのか、と疑いながらも、それ以外の方法で心を記述する術がなかった。この内面を表す言葉を作ろうと苦心していたのが作家であり、それこそが文学の目的だった。自分たちが普段当たり前に使う口語体、内面を描写するさまざまな比喩は、連綿と続く日本近代文学の発展があってこそだったのだ。
以前博物館で昭和初期に書かれた日本兵の手紙を読んだことがある。やたら見た目はいかめしく、美辞麗句が並ぶような文章を見て、全く感情移入できなかったことを覚えている。もしかすると貧しかったのは彼らの内面ではなく、それを制限しようとした時代背景であり、文脈を共有しない他者に伝えるための表現方法だったのかもしれない。
そして平田オリザによる日本近代文学の入門書。
あとがきを読んでわかったが著者の祖父が国粋主義者であり、戦時中に戦争を肯定する作品を出す助けをしてしまったことに触れ、自身もそうなってしまうのではないかという懸念があったことを明らかにしている。本書に出てくる作家の中にも、戦前の表現の制限のために書くテーマを変えた作家や、軍国主義に染まって晩節を汚してしまった作家が出てくる。これは何も文学作品に限らず、社会の中で生きている限り、自分の手掛ける仕事が何らかのイデオロギーを帯びてしまうこと、利用されてしまうこと、利用することは、避けられない。
やっと日本の文学をちゃんと読もうという気になった。とりあえず30代のうちにこの本に出てくる作品を全部読めるだろうか。