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一つの組織史から浮き彫りになる日本人『日本共産党の研究』

コミンテルンの支配、共産党の伸長や地下活動能力などを日本と他国を比較しながら追うことで、日本における共産党が何かが浮かび上がってくる。

  • コミンテルンの活動は専制君主制が長く続いた国かカトリックの国で伸長した一方、自由主義の伝統の長いイギリス、アメリカでは取るに足らない政治勢力にしかならなかった。日本は天皇制的意識構造が染みわたっているため民主集中制の原則は受け入れられた
  • 被差別部落民と在日朝鮮人は日本社会にあって天皇制の外におかれ、差別が続いてきた。日本社会の中に天皇制と対立するもう一つの組織=共産党ができたとき、彼らが支持母体となった
  • 日本の共産党員は中国共産党のように厳しい弾圧下で機密を守ることができなかった。日本人の勝敗感はアナログではなくオール・オア・ナッシングであり、それは第二次世界大戦中に捕虜になった将校がよく軍事機密を話すことに現れていた。
  • 共産党イデオロギーが受け入れられたのは舶来コンプレックスに満ちた、限れたインテリ層だけだった。また当時の日本社会は基本的に農民社会、労働者といっても農民の出稼ぎが多く不況で仕事がなくなると農村に戻るバッファとしての労働力だった。労働者になったからといってプロレタリアートの階級意識に目覚めるわけではなかった。

  • 宗教と革命は距離が遠いようで近い。どちらも救済を約束する。前者は、救済は人間の内面の変革においてあると説くが、後者は救済は人間を取り巻く環境=社会の変革においてあると説く。救済を渇望する人は、どちらかに近づく。どちらの説を信ずるかは、その人が悪の根源を那辺に捉えているかによって決まる。一方にのめり込んで挫折した人間が、他方に走って再救済を求めることは決して珍しくない。昔から、宗教から革命に走った人間も、革命から宗教に走った人間も同じようにたくさんある。
  • 日本人一般がもともとパーソナリティのインテグレーションが弱い。ところが、共産主義者たちは、その弱さを、強烈なマルクス主義のイデオロギーのインテグレーションの強さで補っていた。(中略)あまりにマルクス主義に深くコミットしていただけに、それに代わるものの蓄積が何もない。そこで唯一最後に発見するのが自分が日本人であり、こればかりは自分の血肉そのもので、脱ぎ捨てようにも脱ぎ捨てようがないという事実の認識。ここに彼らが民族主義の深みに入っていった原因があったのではないだろうか。

外的には特攻のスパイに組織の人事や行動が把握され、内的には味方に対する猜疑心が強まり最終的にはリンチ事件に発展してしまう、こういった事情を踏まえるとかなり綱渡りな存続を繰り返してきたことがわかる。

1巻にもあった通り、逮捕されてすぐ自白する党員や、主導者が転向する話(欧米では自らの思想と組織が合わなくなることで離脱が起こり、日本の場合は自らの思想が変わった結果組織を離れる)を読むと、そもそも日本人には明確な主義・思想をもつこと(=血肉化する)自体が合わないのではないかという気がしてきた。それが共産主義をファッションだと捉えていた日和見的な活動家やかつての学生運動の中身のなさにもつながってくるのではないか。

  • スターリン治下の公開粛清裁判において、自分が潔白であるにもかかわらずソビエトの利益だと信じたが故に自らをソビエト反革命の陰謀を企てた有罪と告白し処刑されていった革命たちがもたらしたものはスターリン圧制の一層の強化でしかなかった。
  • 1933年のドイツ・ナチスの台頭を契機にヨーロッパ最強の政党ドイツ共産党が破壊され、ソ連侵略の危険性が生まれたため、コミンテルンは反ファシズムの一点でリベラルな保守とさえ提携する方向に戦術を転換した。日本共産党の「天皇制打倒」のスローガンはそのような統一を阻害するものだったため、方針転換に伴い自己批判を行わざるを得なくなった。

3巻の後半は参考資料集になっている。よくここまで調べたという執念を感じた。読み応えがあった。全体を通してコミンテルンの権威を借り、地下活動は特高に筒抜けであり、疑心暗鬼が生んだ同志討ちによって組織が崩壊していく、という描かれ方をしている。スパイと疑われながら死んでいった党員の無念が伝わる。

ほぼ同時期に共産活動が始まった中国ではなぜここまで共産党が拡大したのか、日本と比較してどのような要因が効いていたのかを知りたくなった