Goodな生活

経済学→環境コンサル→データサイエンティスト

『ガラス玉演戯』

4月初めから7か月かけてようやく読み終えた。読者に没頭感と疎外感を交互に味わわせるような作品だった。3月にロックバンドQUEENの展示に行ったとき、ブライアン・メイの好きな著作として紹介されていたのが本作で、すぐさま購入して読み始めた。

ヘルマン・ヘッセとは何か縁がある。小学生のとき国語の教科書で読んだ「少年の日の思い出」。暗く、内省的でグロテスクな描写だったことを覚えている。大学生のとき読んだ「車輪の下」。宗教学校の規範になじめず、自信を失っていく主人公だった。

全編を通じて「ガラス玉演戯」の定義や具体的な描写はなされない。東西の芸術、歴史、学問を統合した、総合芸術、総合的な表現。球体のガラスとそれを回転、振動、衝突、移動させるための軌道や道具が筆者には見えていたのではないかと想像しながら読み進めた。

非常な没入感と、突如疎外されるような、集中と散漫を繰り返しながら読み終えた。物語の終盤で主人公はある決断を行う。自らの属する機構や役職を相対化し、踏み越えようとする。この決断と対比関係にあるのが、主人公の遺構の「インドの履歴書」の終盤でこちらの主人公が人生を顧みて気付いた、苦しみは無であり、迷いであること。決断と迷い。

愛は絶えず大きくなり、養分を求めましたが、カスターリエンには、養分になるものが何もありませんでした。ここは世界の外であって、それ自体一つの小さな完全なもはや生成発展することのない世界でした

世界は絶えず変化するもので、その中で決断することが人間の営みなのだと。安倍公房「砂の女」を思い出す。何となく自分はこういう世界観の中で人間はどう生きるかを言語かするために小説を読んでいるのかもしれない。