前回の写真展に続き、ドアノーの映画を観に行った。
写真と過去
映画の終盤に、ドアノー自身が写真を撮ることについて語る。写真は撮った瞬間にすべて過去になってしまう。人物を撮るのは、去り行く友人を見送るようなもので、手を振り、次の角を曲がって姿が見えなくなった瞬間、これが彼の最後の姿だったと。
過去を振り返るシーンもあった。ドイツ占領から解放されたパリの兵士の写真。若かりし日のドアノーはこの写真を撮りたかった訳ではなかった。頼まれたから仕方なく撮った。しかしキャリアを重ねた彼は嬉しそうに過去を懐かしむ。銃を片手に笑顔を浮かべる兵士たちの顔は、パリの復興に向けた希望に満ちている、と。
福岡伸一は著書『フェルメール光の王国』の中で、微分を、連続な時間の変化のひと時を止めてみたいと人類のはかない祈りに例えた。この意味ではカメラのシャッターを押す瞬間は微分そのものである。
椎名林檎は楽曲『透明少女』で、写真機ではなく、5感が必要だと歌う。ちなみにこの歌の英題はPut Your Camera Downである。
写真とはその保存性という機能をもって、我々に記憶との向き合い方を問うている気がする。多くの現代人にとって一番身近なカメラはスマホのアプリではないだろうか。私のiPhoneにも約6,000枚の写真やビデオが保存されている。たくさん保存して、見返すものも中にはある。しかしつまるところ記録そのものに意味や目的はなく、撮ったから大丈夫という安心感を得たいだけなのかもしれない。写真は、撮る瞬間にお別れを告げる過去であり、いつでも好きなときに取り出せる未来に対する挨拶なのかもしれない。また会えるからよろしく。
描かれなかったドアノー
京都にある美術館、何必館館長の梶川氏はドアノーのポートフォリオの所有者として映画の終盤に登場する。赤瀬川原平氏の『個人美術館の愉しみ』という本の中で、この何必館に当時のフランス・シラク大統領が訪れたといの逸話が紹介されている。
シラク大統領(当時)が来館したときこれを見て「あのドアノーか」と口にしながら一枚ずつ見入っていたそうだ。それというのも、シラクとドアノーはかつて対独レジスタンス戦線での同志で、とりわけドアノーはそのレジスタンスでの花形、大スターだったという。
映画の中ではナチスやレジスタンス活動については全く触れられていなかった。ドアノーは写真家の原動力は不服従と好奇心だと語る。不服従とはレジスタンスとも解釈できなくはない。しかし、ドアノー自身がレジスタンスの英雄だとは今一つ腑に落ちない。自分の写真が政治的に利用される葛藤もあったのではないか。次何必館を訪れる機会があれば、ぜひこの点を質問したいと思う。