Goodな生活

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環境エネルギー分野のシンクタンク職員です。統計学や計量経済学の学習メモ、読んだ本や映画、たまに登山や音楽の話。

『紫禁城の黄昏』を読んで

紫禁城の黄昏―完訳 (上)

紫禁城の黄昏―完訳 (上)

紫禁城の黄昏―完訳 (下)

紫禁城の黄昏―完訳 (下)

読んだきっかけ

清朝の最後の皇帝溥儀の生涯を描いた映画、『ラストエンペラー』の原作。溥儀の家庭教師であった英国人ジョンストンによるもの。清朝そして溥儀の栄枯盛衰を叙情的に描いた私小説を期待したものの、見事に違った。当時の国際情勢について筆者の見聞やメディアの報道に鑑み、紫禁城の内部にいながらにして客観的にその没落を記述した真っ当な歴史小説だった。

メモ

中国における国号と王朝

唐、宋、明等の中国の歴代の王朝は、領土の大きさ・構成地域を表すものではなかった。当然ながら王朝が変わると支配地域が次の王朝に引き継がれることはなかった。したがってある王朝が没落した後、中国の僻地や他のアジアのどこかで首尾よく存続できると、理論的には王朝名を改める必要はない。1644年、満州から興った清は1911年の辛亥革命以後も存続し続けた。清王朝は設立されず、西洋諸国にならって中華民国(中国共和国)と呼ぶことを決めた。この時点で初めて、地理的な領土を伴う中国は国家の体をなしたと言えるのではないだろうか。中国4000年の歴史と言うけれど、同一国家が連続して存在した訳ではなく、中国大陸に様々な国々が勃興と衰退を繰り返してきた、と表現する方が正しいのだろう。

孝道を重んじる

西太后が光緒帝に優越することを基礎づける理論は、孝道を重んじる中国の伝統。年長者が年下のものに対して権威者の役割を放棄することはあり得ない。年下のものは必ず年長者を尊敬し、服従しなければならない。帝室はこのような模範を帝国全土に示すよう期待されていた。

紫禁城故宮)の北側の人工の山

紫禁城の北側の門(神武門)の外に、左右対称な人工の山がある。隣接する北海、中海、南海を掘ったときの残土で築いた。北は凶の影響を受ける場所なので、丘の役目は、その悪影響が天子の御所に及ばないようにすること。奈良県天理市にも、同様の理由か人工的に築いた山があると聞いた。

算数と算盤の功罪

皇族たちが物質的利益を保護できず、資産も管理できなかった理由は、中国の教育制度の欠陥だった。学校や試験制度では古典の学習だけが強調される。

シナの生活と文化の権威者の言葉を借りれば、「近年、西洋の教育から影響を受けた人々を除けば、算数は学童の勉強する科目ではない」ということだ。

さらにシナの人々は「英国の六歳児や八歳児が学習するような足し算、引き算、掛け算、割り算の貧弱な知識だけで満足し、それで一生を送っている」と付け加えている。

算数が軽視される一方で、簿記や会計に携わる人が算盤をはじく相当な技術を持していたことは注目に値する。

算盤を使うと、H・A・ジャイルズ博士の言うように、「逆算をして誤りを探せないという顕著な不都合があり、計算を進めるごとに、一算ごとの結果が消える」という問題が残るからである。

中国の人々には、逆算をして(過去を反省して)誤りを探したがらない傾向があり、計算(物事)を進めるごとに、一算(一つ一つのステップ)の結果が消えるのをやり過ごしている、とジョンストンは述べている。

ローマの法律は、過去の条文を消さずにすべて追記や加筆を行いながら修正していく、と聞いたことがある。過去の検討経緯をすべからく記述する、そのため条文間の時系列や整合性がばらばらになってしまっていると。一概に比較はできないが、プロセスを記述する重要さの違いが二つの文化圏で大きく異なっているように思われる。

日本政府と溥儀

1924年11月から1925年2月まで、紫禁城を追われた溥儀は日本公使館に滞在する。その後1931年までの7年間、天津の日本租界内で寂しく暮らすことになる。当時の中国の新聞では、日本の中国に対する帝国主義的な計画の道具として溥儀を政治利用する、等の報道がなされた。仮に日本政府から溥儀に日本に招待する等の打診があったならば、溥儀は喜んでそれを受け入れただろう、とジョンストンは回顧する。しかし、日本政府は溥儀にそのようなそぶりを見せるどころか、日本の租借地である満州の関東州に皇帝がいては「困惑する」という趣旨を、ジョンストンを通して溥儀に伝えていた。両者の間には明確な主従関係があった訳ではなく、資源確保等実益のために満州を統治したい関東軍と、満州から清朝を興した太宗の子孫である溥儀がふるさとに王朝を再建したいという思いが相まって、満州国が生まれたのだと思う。満州にわたって以降の溥儀の生活は、山室信一(2004)『キメラー満州国の肖像』が詳しかった。