Goodな生活

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それはいきあたりばっちりな人生。being good and haphazard.

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自分自身の人生を生きる

多分、人生が変わった。3日前、5月13日(水)の夜、自分に転機が訪れたのだと思う。シンプルに結論を言うと、これからはもっと自分自身の人生を生きる、という話。一昨日と昨日はまだ転機の余韻が残っていて、頭がふわふわしたような、地に足のつかない、根無し草になったような、自分の重心がどこか分からなくなる感覚が残っていた。これ以上時間が経つと、その時の感情をうまく文章にしようとして、感情のニュアンスをうまく表せなくなってしまう。言葉はいつも感情に追いつかない。話す言葉や文章は原文を訳した二次情報でしかない。

今、心は落ち着いている。朝の公園でこれを書いている。犬の散歩をする人、僕のようにパソコンを開く人、芝生に寝転がる人、遊ぶ子供、ストレッチをする人、自転車をこぐ人、鳩。空は白い。軽い空気。

自分自身の人生を生きてこなかったのではないかと気づいた。それは3日前の夜、岡本太郎の書籍を解説するYouTubeをラジオ替わりに流していたとき。自分は自身の人生を生きてこなかったのではないか。マクロな話で言うと、世界のルールである資本主義、貨幣経済、社会システムの中に最適に取り込まれている自分。きっと頭ではわかっていたのだと思う。学部時代から経済学や社会学の古典に触れてきた。頭ではわかっている。でもこれは知識とか理論とかの話ではない。自分の思考、考え方、発想それらがいかに競争や他人との比較に浸食され、汚されてしまっていたか、という肌感覚である。経歴で人を判断し、賞をとった映画に心打たれ、食べログで他人の評価と自分の評価にズレがないかを気にする。果たしてこれが自分自身の思考なのか。ミクロな話、身近な話題で言うと、他人の目や世間の評価を気にする自分がいる。まともに働いていると思われたい、まっとうな人生を歩んでいると思われたい。誰のためか、親か、親戚か、高校の同級生か、大学の友人か。なぜ上司の間違いを指摘しないのか、話の長いつまらない先輩の話をにこにこして聞いているのか、権威のある人にかわいがられたいとへらへらしているのか、同期と酒を飲みながら仕事の愚痴を言うのか。本当にかっこ悪い。本当に。

景色でも音楽でも料理でもなんでもよい。美しい、綺麗だ、おいしい、面白い、楽しいと感じる確かな自分の感情があるのに、自分はその声を今まで聞いてきたか。一番のバロメータである自分の感情に素直に生きてきたのか。別に今までの人生がすべて間違いだったなどは思わない。自分で選択して手に入れたものもあるし、楽しかった瞬間もたくさんある。でも、今日こそは自分自身だという一日を生きた、と胸を張って言える日が何日あったか。もっと短い単位でいい。一瞬一瞬の判断、意思決定、この瞬間自分自身の直観に従ったと言えるときがどれほどあっただろうか。おそらく今までの大多数の瞬間は無視してきた。一番信頼できる自分の声を聴かなかった。ずっと何らかの信号を送り続けてくれていたにもかかわらず、それを聞かないふりをしてきた。こんな不遜がこの世の中にあるか。

お前は誰の人生を生きてるねん。アホか。怒号。阿鼻叫喚の極み。生命。滝のような感情。胸倉を掴んでめちゃくちゃにしたい。怒鳴りつけたい気分だが怒鳴りつける相手がいない。今までに体験したことのない不条理。こんなことが許されるのか。どんな手を使ってでも止めさせたい。そのためには何でもする。全身で、身を投げ打って、その不条理と闘わなければならない。遠い国の戦争、貧困、差別、犯罪、テロ、地球の環境などどうでもよい。人が何人死のうが関係ない。今、自分がこの問題に立ち向かわなければすべてが失われる。取り返しのつかないことをしている。筆舌に尽くしがたい圧力を持した感情に、立っていられない。息ができない。素手で心臓を掴まれ、揺さぶられる。自制がきかない。

思わず外に出て、歩き始めた。とにかく体に負荷をかけたかった。ここまで心が揺さぶられているのに、体にまったく疲労がないのはおかしい。バランスがとれない。このままでは自分がバラバラになってしまう。1時間か1時間半か、ずっと歩き続けた。心と同じぐらい体を疲れさせ、自分を落ち着かせたかった。そして、自分の身に起きたことを言語化しようと試みた。

結局、社会のシステムに取り込まれているなど、他人の目を気にするなど言ったところで、それも結局自分が作り出したものにすぎない。自分と社会や環境が対立しているのではない。内部も外部もない。本来何の違いもない。何が良い悪い、誰が優れている劣っている。関係性を作っているのは自分自身でもあるのだ。関係性というのは人間関係のことで、部下と上司、子供と親、妻と夫などが分かりやすい。部下と上司、それぞれの人間に優劣がある訳ではない。始原的な違いはない。そこに自分たちが主従関係を作り出している。会社のルールに適合しているかを確認する、決済をもらうために頭を下げる、自分の表情、言動、仕草、一挙手一投足すべての所作が、上司を上司たらしめている。だからこの主従関係は合作で、自分を取り巻く社会や環境を作り出すのは自分。社会や環境が苦しく、望まないものなのであれば、それは自分と社会や環境の共犯なのだと。

ならば苦しみたかったのは自分だ。評価されないのは自分。認められないのは自分。許せないのは自分。そんなに怖いことか。職をなくす。給料がなくなる。履歴書に空白ができる。地位も名誉もない。生身の人間を生き続ける。誰にも認められない。賞賛されない。見向きもされない。そんなに怖いものなのか。誰かの用意した安全の道の先に、値段の着いた安定した生活が待っている。それを享受して幸せだとかなんとか言うのか。それを繰り返したところで後悔するのが目に見えている。きっと年老いて死ぬ直前になって気づくだろう。自分を信じればよかった。何を恐れる必要があったのだと。だったら自分自身の人生を生きよう。瞬間的に、図太く、いのちを使って死んでいこう。今、この瞬間の自分に全幅の信頼を置こう。そしてそれを繰り返す。

もしコロナがなければ僕はこの絶対的な自分に気づけなかったのかもしれない。今までの人生でこれほど自分と対話できたことがなかったかもしれない。だからコロナに感謝したい。「直観を信じろ!」「嫌なことは全部ウイルスのせいにしていいよ!」と応援されているような気分になる。コロナに感謝したい。MVPをあげたい。この追い風が止まぬよう感謝し続けたい。

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