Goodな生活

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環境エネルギー分野のシンクタンク職員です。統計学や計量経済学の学習メモ、読んだ本や映画、たまに登山や音楽の話。

『暇と退屈の倫理学』自分の「好き」と向き合う第一ステップとして

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

きっかけ

学部時代の恩師にずっと前に勧められたもの。ようやく去年購入し、本棚に積読になっていた。

感想

3月の第4週目からテレワークが始まった。通勤のためスーツに着替えたり、電車に乗る必要がなくなり、かなり生活に余裕ができた。時間的な余裕と精神的な余裕である。この余裕を活用して、まず今まで読みたかった本や映画に触れた。そして次に、自分自身に興味が湧いた。「自分の好きなことは何か」という問いである。ここ2週間ぐらいこの問いが頭の片隅にずっと居座っていた。この本は、過去の哲学者の考察を後追いしながら、人間はどのように暇や退屈と向き合っていくのか、を記した本である。当然この問いに答えが用意されている訳ではないし、答えを出さなければならない訳でもない。ただし、過去の偉人の視点や言葉によって自分自身を観察することができるという意味で、この本は救いに溢れている。

暇という言葉は文脈によって良い意味にも悪い意味にもなりえる。暇とは、余暇を楽しむ時間である一方、遊休状態だと捉えればもったいない時間でもある。退屈という言葉は良い意味では使われない。退屈は、ある物や出来事を形容する言葉であると同時に、自分自身に向けられる言葉でもある。盛大なパーティや技巧の限りを尽くした芸術品も、参加者である自分が楽しめなければ、退屈な時間を過ごしたことになる。ぎっしりと詰まったスケジュールをこなし、一日の終わりに「楽しめなかったなあ」と振り返るとき、その一日は忙しいつまり暇ではないものの、退屈な一日だったことになる。

本当は限られた人生、貴重な毎日を熱中して過ごしたい。時間が経つのを忘れるぐらい何かに没頭したい。「今日は自分自身を生きた一日だった」と毎日眠りにつくときに思いたい。ではこの情熱を何に向ければよいのか。たくさんの情報が行き交う中、自分をドライブさせる選択肢をどのように見つけるのか。仕事やお金や住む場所に何の制約もない中で、自分が心から楽しめることは何なのか。これらの問いに向き合う億劫さ故、仕方なく仕事をするのではないか。気晴らしにコーヒーを飲むのではないか。気分転換にYouTubeを見るのではないか。

億劫さが生じるのは、不安や恐怖の心である。なぜ会社で仕事をするのかを考えてみる。給料がもらえないという不安。家賃が払えない。東京に住めない。奨学金を返せない。クレジットカードの審査に落ちる。親に心配をかけたくない。まともに仕事をしていると周りに思われたい。好きなことだけして暮らしてはいけないという不安。不安によって思考停止に陥り、仕方なく仕事をする。不安だから仕事をしているくせに不平不満を言う。自分が不安や恐怖に苛まれていることは棚に上げて、自分の置かれた環境の不備をくまなく探す。言語化できる不平不満は口に出し、愚痴を言い合い、あたかも恵まれない境遇に置かれたかのような錯覚を味わう。自分自身を慰める。結局退屈だから不満を言う。文句や愚痴を言う人は暇なのである。

しかし不安や恐怖というのはあくまで気分の問題であり、人間が物理的に縛られるつまりある環境下で行動を制限されるものではない。本来気分の問題であるのに、その原因を置かれた環境に見出してしまう。だから環境を変えれば救われると考えてしまう。

ハイデッガーは「哲学とは郷愁である」と、気分を表す言葉によって哲学を定義した。この定義には何か客観的な妥当性がある訳ではない。郷愁であるーどこにいても故郷や家を思う気持ちーにハイデッガー自身が感動したにすぎない。これは何も哲学に限った話ではなく、何かの概念を理解するには、心が揺さぶられかどうかがバロメータになる。論理的であるから理解できるのではない、腑に落ちる、という感覚・気分によって、人間は何かを理解する。

ハイデッガーの退屈論の結論は「退屈する人間には自由があるから決断せよ」というものである。退屈という気分は人間が自由であるという事実を示してくれる。自由であるつまり可能性が開かれているならば、決断しよう、という話である。本書ではハイデッガーの退屈論を引き合いに出した後、批判的な検討が続く。しかし、個人的には概ねこの考え方に賛成である。人間はあらゆる可能性を決断することができる。一つの熱中の対象が嫌になれば、それを変えればよい。何回でも変えればよい。今この瞬間、自分の気分が良い選択をする。